涼宮ハルヒの詮索


 まだ出会って間もない頃、ハルヒは恋愛を精神病の一種だと述べてみせた。
 その弁を俺は否定していないし、それがハルヒらしいとすら思った。こいつが谷口みたいなチャラけた男とイチャイチャしている所なんぞ想像することすら脳が拒否するし、万が一あったとしても俺はそれを認めない。いや、認めたくないっつーか……いや、それはその状況自体が有り得ないことであるからこそ認められないだけで、俺がそれを見て何やらモヤモヤした気分になるからではない。断じて違うと言っておこう。
 話が逸れたが、ハルヒは恋愛事に甚だ興味がない姿勢を取っていた。だからハルヒの口からこんな台詞が発せられて暫く固まってしまった俺は決しておかしくはないだろう。
「あんたさ、好きな人とかいるの?」
 思わず耳を疑ったね。ちなみにこれは朝のHRが始まるまでの僅かな時間のことであって、いつも通り俺の後ろの席に腰を下ろしたハルヒは腕を立てて窓の外を見ながらそう言った。そのせいで表情は読み取れない。
 ハルヒはどうやら俺の返事を待ってるようだ。そっぽを向くように視線を逸らしているハルヒの髪の隙間から僅かに見える耳はどういうわけか真っ赤に染まっている。
「どうしていきなりそんなこと聞くんだ? 恋愛は精神病の一種なんじゃなかったのか?」
 立て続けに質問すると、ハルヒは一瞬だけ俺を見て、わざとらしい溜息と共にまた視線を逸らした。何なんだよ、一体。
「べつに。聞いてみようと思っただけよ。特に意味はないわ」
 そんな訳ないだろ。少なくとも俺の知ってる涼宮ハルヒは恋愛事に興味なんて微塵もない奇天烈女だぞ。
「失礼ね。奇天烈とは何よ」
 本当のことだろ。
「後で校庭三週」
 いえ、何でもありません。ハルヒ団長様。
「それでよし」
 ハルヒはやっとささやかな笑みを浮かべた。視線は未だ逸らされたままだったが、その身体から放出される雰囲気が僅かながらにも柔らかくなる。
「で、何だってんだ? 何か意味があるんだろ。ドッキリか?」
 俺が聞くと、ハルヒはまただんまりを始めた。窓の外を見ているようでどこも見ていない瞳が物憂げに伏せられる。
「……あんたさ」
 余程言いにくいことなのか、珍しく歯切れ悪く沈んだ声でハルヒは言った。何だ? と問いかけようと唇を開いたちょうどそのタイミングに、続く言葉がその薄い唇から発せられる。
「最近有希と仲良いじゃない?」
 ……は?
 俺は思わずポカンと口を開いたまま固まった。そんな俺に構わず、ハルヒはもごもごと続ける。
「つ、……付き合わないの?」
 何故だか知らんがハルヒの顔は真っ赤だ。俺に見られたくないのか髪を整えて必死に顔を隠そうとしている。無駄なんだがな。
 っていうかハルヒは何と言った? 俺と長門が仲良いから、付き合わないのか、だと?
 俺は思わず閉口した。どうにも答えがたい。どう答えたらこの状況をすり抜けられるのか、それを考えるので精一杯だ。聞くんじゃなかったぜ。
 はて、どう答えるべきか。確かにハルヒが言うように、俺と長門は最近よく時間を共にしている。それは不可避の状況であったり自ら進んで作った時間だったり状況は様々だが、時間を共有していることは確かだ。
 好きか嫌いかで言ったら長門は間違いなく好きな部類に入るだろう。ハルヒ消失事件の時、例のパラレルワールドで朝倉に問いかけられた時もそう思った。その感情に名前を付けるのだとすると悩む程度には複雑な感情であることは確かだしあいつに感謝もしている。だが、だがな……。
 暫く悩んだ末、俺はハルヒを見た。ハルヒは顔だけは逸らしつつも、しきりにチラチラと俺を見ている。
「まだ、よく分かんねぇよ」
 悩んだ末の答えはそれだった。それは誤魔化しでも偽りでも何でもなく、俺の率直な返答だ。
「……ふーん」
 ハルヒは吐息交じりに小さくそう呟いた。その吐息が何を表していたのか、俺には分からない。
 それっきり黙りこくって目を伏せているハルヒを見て、俺は思わず吹き出した。こいつにシリアスなムードは似合わないよな。どう考えても。
「な、なによ。何がおかしいの?」
 ハルヒがやっとこっちを向く。拳を握って振り上げて、しかしそれは音もなく机に下ろされた。
 自然と自身の瞳が細まるのを感じる。微笑みには満たない程度の、僅かな変化。
「まぁいいだろ。お前も長門も朝比奈さんも古泉も、仲間なんだしな」
 今度はハルヒがポカンと口を開ける番だった。呆気に取られたような表情をしてしかし一瞬後には口をがま口のように閉じたハルヒは、腕を組んでまたそっぽを向きながら「当たり前でしょ!」と強気な言葉を紡いだ。
 やっぱりハルヒはそうでなくちゃな、と自分にしか聞こえない程度の声で呟いた俺の頬に地獄耳の団長様のパンチが緩く食い込むことになるのは、その一瞬後のことだ。










 

「好き?」


「ねぇキョン、あんたさ、ハンバーグ好き?」
 朝学校に言って席についた俺に、ハルヒ団長様はそう言ってきた。
 正直訳が分からない。ハイキングコースを一生懸命登ってやってきたクラスメイトに対し何故いきなりハンバーグの話題が出てくるのだろう。こいつの思考回路はきっと俺が何十年かけても解明できるもんじゃないね。こいつの脳をパックリ割ってみた中に果たして脳みそは入っているんだろうか。超小型コンピューターが中でランダムにこいつの行動パターンを選んでるんじゃないのかと俺が推測しちまうくらいには、こいつの行動は摩訶不思議なのである。
「別に嫌いじゃないが、それがどうかしたのか」
「じゃあカレーは?」
 何が聞きたいんだよ、こいつは。
「普通に好きなんじゃないか?」
「……好きならもっと気持ちを込めて言いなさいよ」
 どうしてカレーに気持ちを込めて愛を叫ばねばならんのか四百字詰め原稿用紙三枚分で説明してくれ。
「うるさいわね。じゃあ肉じゃがは?」
「別に普通だが」
「…おでん」
「冬はいいよな」
「好きなの嫌いなのどっちなの!」
「どっちかって聞かれたら好きだと答えるな」
「〜〜っじゃあチョコレートは!?」
「少量ならイケるが大量に食わされると胸やけがする」
「っ……あぁもう! じゃあ――」
 こんな感じのやり取りがあと半ダースほど続いて、別段取り立てて好きな物がない俺がハルヒの問いかけに生返事をし続けていると、ハルヒはとうとうキレ始めた。ほんと、何がしたいんだ、こいつは。
「キョン! あんたってやつは好きな食べ物の一つや二つもないわけ!?」
「だから普通に好きだっつってんじゃねぇか」
「何かあるでしょう! これだけは誰にも譲れないわっていう何かが!」
「ねーよ」
 ハルヒはそこでむむむと唸った。っつーか、どうしてそんなに俺の好きな食べ物にこだわるんだよ。誕生日パーティーでもやってくれんのか? いや、そうだとするとこの必死さはおかしいか。
 好きな食べ物と言われても、俺は小さい頃から母親に何でもかんでもとにかく食わされた人間であり、幸か不幸か特に好き嫌いのない健康的な味覚を手に入れてしまった。親が仕事の間妹の世話を一任されていた親が怠けていたせいか妹は典型的な好き嫌いを持った奴に育っちまったがな。
 好きな食べ物……ねぇ。何だろう。そう言えば考えたことなかったな。出されれば食うし、たまに「あ、あれが食いたい」と思うことはあるが、毎日食わされれば飽きる程度には特に固着した食いもんに愛を捧げていない。実に健康的だよな。俺がここまで成長したのは俺に好き嫌いを感じる暇すら与えなかった母親の功績だ。
 ……おっと、そういえば。
「アイスは好きだぞ」
 夏に食べるのもいいが、冬にコタツに入りながら食うのもいいよな。うん。これはハルヒの言う「これだけは譲れない」物になるのかもしれん。コタツでアイスの袋を広げた直後は何を言われても動こうと思わないしな。
 思い出したように言った俺の言葉に、ハルヒはネズミを見つけた猫のように耳をピクンと動かした。睨み付けるように俺を見て、おずおずと唇を動かす。
「……好き、なの?」
「あぁ、好きだぞ」
 俺がそう言ったとたんハルヒは真っ赤になってほくそ笑んだ。この会話のどこにそんな不可解な表情を誘う要素があったのか一ミクロンも推測できないのだが。
「……どのくらい?」
 何だそりゃ。
「まぁ奪われたら烈火の如く怒る程度には好きだが……」
 っつーか結局何なんだよさっきからと問いかけようとした俺の言葉は空気を震わさずに終わり、代わりに担任岡部の快活な足音が朝の教室に響いた。今日も幼稚園に入園したばかりの三歳児のような無駄に元気に挨拶した岡部は、今日は五時間目の古典が自習になること、明日から購買のシステムが変わるので各自確認しておくこと、最近寒くて指がかじかんでいたためか久しぶりにハンドボールで突き指をしてしまったことをこれまた無駄に溌剌と述べ、皆も気を付けてくれよと全く無駄な気遣いの言葉を発し、そしてHRは終了となった。
 一体何だったんだ? と数分越しになってしまった問いかけをしようと振り返った俺の視線の先で、ハルヒは耳を真っ赤に染めて机に突っ伏していた。絶対おかしいぞ何か変な物でも食べたんじゃないかと思い軽く背中を揺すってやると、トマト色だった耳がイチゴ色に変わった。










 

朝比奈みくるの由来


 名前の由来、というものを考えたことはあるだろうか。
 俺の場合は親に聞いてもはぐらさかれるだけであり、きっと適当に付けたんだろうと物悲しい思いに駆られることもあったが今さらそれを咎めても意味を成さないのは俺が一番分かっている為、俺はこの名前もその名前からきたこのあだ名も寛容に認めている。悲しいことに。
 それに対し俺以外のSOS団は皆なんとも雅な名前を持つ。春の日差しを思わせるハルヒに、一本の大きな樹から来るのであろう古泉、希望が有ると書いて「ゆき」と読む長門。皆それぞれ素直かつ響きのよい名前を持っている。羨ましいと言う気はないが、うん、まぁ、いいよな。親もさぞかし頭を悩ませ付けたんだろうよ。長門の場合は誰がどうやって付けた名前なのかね。もし情報統合思念体が付けた名なら、それなりに奴らに対する印象がアップするのだが。
 では、朝比奈さんはどうだ?
 ある日の放課後、古泉とハルヒが掃除当番だというので俺は珍しく朝比奈さんとオセロをして時間を潰していた。愛くるしいSOS団専用メイドがむむむと眉間にひそやかな皺を寄せ悩んでいるのを眺めながら、俺はそんなことをぼんやり考えた。
 みくる………みくるねぇ。平仮名なのが何とも朝比奈さんらしいが、由来は何なのだろう。
「……ちょ、ちょっと待っててくださいね。キョンくん」
 いやいや、たっぷり悩んでいいですよ。時間はまだまだありますし。
 この愛らしい上級生との対決ではどうも本気になりようがないのだが、朝比奈さんにはそれで十分手強かったらしい。しかし出会ってからというもの毎日のようにボードゲームを共にしているのにも関わらず全く上達の兆しを見せない古泉よりかは有意義な対戦だよな。やはり何をするにも相手は男でないほうが嬉しいものさ。
 朝比奈さんの白を俺の黒が追い詰めつつあるボード上の殺伐とした展開を眺め、俺はまた思考に励む。長門が隅で醸し出す静かな空気を感じながら何気なく窓の外を見遣ると、まだ冬に入ったばかりだというのに、ガラス一枚隔てた先では剥き出しの木の枝が寒々しく北風になぶられていた。
「キョンくん、どうぞ」
 パチンと音がしたと思ったら、ようやく朝比奈さんが悩みの末の一手を置いたようだった。白と白に挟まれた俺の黒が微妙にぎこちない動作でひっくり返されてゆく。この可愛らしいマスコットキャラの正体がよもや未来から来たエージェントだなんて、誰が予想するだろう。
 ……ん? 待てよ。もしかしたら……。
「朝比奈さん、朝比奈さんの名前の由来って、ひょっとしなくとも「未来」ですか?」
「へ? そ、そうですけど」
 突然こんな話を振られた朝比奈さんは大きな目をパチクリさせて俺を見遣り、そして何故だか知らんが恥ずかしげに頷いた。やはりそうか。
「詳しい事情は分からないんですけど……うん、前に聞いたらそう言ってたの」
「未来人だからですかね」
 朝比奈さんはクスリと笑い、
「違いますよ。あたし達は未来人として生まれてるんじゃないもの。生まれた世界に、たまたま時間移動するシステムが確立されてただけ」
「……なるほど」
 そうだよな。日本人の俺がアメリカの奴から見たら「外国人」になるのと同じように、朝比奈さんはただこことは少しばかり違う所で生まれただけだ。朝比奈さんの住む世界にしてみたら俺達はきっと江戸時代のオサムライのような存在なんだろうよ。
「でも、「未来」っていう漢字を当てたのは確かみたいです。何か他に難しい意味があるのかもしれないけど」
 朝比奈さんはそう言って微笑む。何ともこの人に似つかわしい可愛らしさ満載の名前だと思うね。この人以上に「朝比奈みくる」という名が似合う人間はいないんじゃなかろうか。
 朝比奈さんの微笑みを心ゆくまで眺めてから、俺は意識を机上に向けた。ううむ、たっぷり悩んだ朝比奈さんには悪いが、このまま勝ちに持っていくのは容易いな。どうして俺のこの思考能力は勉強に向いてくれないんだろうね。甚だしく謎なのだが。
 白を角の一個手前に置かせれば俺の勝ちは決まったも同然なのだが、このまま勝ってしまうのはどうにも惜しい気がする。せっかくのゆったりとしたこの時間は、きっとそう長くは続かないんだろうしな。
 多少悩んだ後、俺は角の一個手前にパチンと黒を乗せた。黒に挟まれた白をひっくり返した先には、被害を被らなかった白がまだ生きている。「未来」の名を持つ未来人の瞳がおやつを目の前にぶら下げられた子犬のようにキラキラと輝いて、そして威勢の良い音と共に白がオセロ盤の一角を埋めた。これで形勢逆転である。
 うむむと悩むフリをして、俺は本人曰わく「居候の身」であるマイエンジェルを盗み見た。嘗て自分をパラパラ漫画に描かれた余計な絵みたいな物だと称した彼女の柔らかい微笑みは、例え俺が記憶喪失になったとしても決して忘れることはないように思われた。