a curing voice


 最近体調が悪かったことは確かだ。ここ1週間はなんとなーく身体がだるく、起き上がりたくないと訴える身体に鞭を打って学校に通っていた。昨日なんかはもう気絶寸前で、珍しく俺の体調を気にかけてくださったハルヒ団長様のおかげで久しぶりに団活をせずに帰った。それはそれで、結構……いやかなり物足りなかったような気もしなくはなかったんだが。
 あぁ、そんなことどうでもいいな。とにかく俺はずっと体調が芳しくなく、昨日なんて特に宜しくなく、珍しく物足りない思いをして、
「……39度3分……」
 今ベッドの上で項垂れてるって訳だ。
 うん、人生生きてて何度か風邪を引いたことはあるが、39度超えたのは久しぶりだな。確か小坊の時に40度超えた時以来じゃねぇか?それからは一晩寝りゃ治るようなヤワな風邪しか引いていなかった気がする。これでも結構身体は丈夫なほうなんだ。
 昨日帰ってから母親に勧められて行った病院の医者によると、どうやら俺はインフルエンザらしい。学校を休んでも休み扱いにならないのは嬉しいんだが、どうにもこうにも辛すぎる。こりゃないだろうってくらい身体は熱いし意識は朦朧としてるし喉は痛いし骨は軋むしで、正直もう死にそうなくらい辛い。
 体温計を机に放り投げ、枕元にあった携帯を取る。「か」行の真ん中辺りに位置する苗字を持っている某優等生に電話をかけると、ヤツは数コールで電話に出てくれた。
『大丈夫なのかい?キョン』
 国木田の耳障りの良い声を聞きながら俺は暫し感傷に浸る。電話に出た第一声がこれって、こいつはどこまでいい奴なんだ。これがもしハルヒだったら一体奴は何と言っただろう。聞いてみたい気もする。
「あぁ……それなんだが、かなりマズイ状況なんだ。どうやらインフルエンザらしい。岡部に伝えといてくれないか。後、ハルヒに見舞いには来るなと言ってくれ」
 国木田は小さく笑い、
『分かった。どっちにも伝えておくよ。お大事にね』
「あぁ……」
 それだけ言って電話を切った。こんな短い会話でもかなり辛い。こりゃ重症だな。俺はいつまでこの辛さと手を繋いで付き合っていねばならないのだろう。できれば早くオサラバしたいぜ。
「キョンく〜ん……だいじょうぶー?」
「入ってくるんじゃありません。うつるぞ」
「はぁ〜い…」
 いつもはハルヒ並に喧しい妹も今日は静かだ。いつもこのくらいだと有難いのだが、これはこれで気味悪い気もする。人間普通が一番だな。
 完全マスク防備をした母親が持ってきたおかゆを何とか意に収め、病院支給の苦い薬を飲む。粉はやめてくれと言ったのに、何故粉なんだ。俺の診察を担当した佐藤さん(推定年齢26歳)は目を開きながら居眠りでもしていたのだろうか。ハルヒだったら裁判訴訟を起こしているところだぞ。俺でよかったな、佐藤さん。
 などと考えつつ薬を飲み終わった途端に睡魔が襲ってきた。何なんだろうね、この感覚は。だるいっつーか、眠いっつーか……恐らくその両方なんだろうが。
 国木田にああ言った以上、ハルヒ達は見舞いには来ないだろう。いくらハルヒでもインフルエンザの恐ろしさくらいは知ってるはずさ。しかもこの状態でハルヒ達の相手をするのは俺的にもかなり辛い。あいつら、きっと俺に構わず騒ぎ出すだろうからな。いや、見舞いに来てくれること自体が嫌なんじゃなく、俺はただ奴らにこのしょうもないインフル野郎をうつしたくないだけさ。万が一来たら謹んでお帰りいただくとしよう。
 ということは、俺は今日1日中寝ていられるのだ。たまにはいいよな。SOS団も授業もハイキングコースの上り下りも何もない生活っていうのもさ。
 ……やばい、限界だ。
 迫り来る睡魔に耐えきれず、俺は意識を手放した。



 目を覚ましたとき、部屋の天井は既に夕陽色に染まっていた。僅かに身体を起こして時計を見ると、午後5時半を示している。どんだけ寝てたんだ、俺は。昼分の薬、すっぽかしちまったな。
 しかし身体は幾分か楽になったような気がする。あと1日か2日寝てりゃ治るかね。その間あいつらに会えないことを寂しいと思うのは、俺が風邪を引いて弱っているからだろうか。

 ―――コンコン。

 部屋に控えめなノック音が響いた。母親か妹か。いつもなら平気で入ってくるのに、少しは気を使ってくれているのかね。
「何だ…?」
 喉から声を絞り出すと、痒みに似た痛みが喉を襲った。くそ、この不快感だけでも窓から投げ捨てたいぜ。誰かもらってくれないか?真剣に。
 いやにゆっくりと扉が開く。
 そこにいた人物を見て、俺は一瞬目を疑った。
「……起きた?」
 三点リーダーを含ませた問いかけと共に部屋に入ってきたのは、何を隠そうSOS団の万能選手であって実は宇宙人製ヒューマナイドインターフェース、長門有希だったのだ。
 どうした?何かあったのか?
「お見舞い」
 掠れ声の俺の問いに長門は一言で答える。
「涼宮ハルヒを始め朝比奈みくる、古泉一樹はお見舞いを自粛した。インフルエンザは危険」
 お前は大丈夫なのか?言っておくが、かなり酷いぞ?
 長門はコクリと頷き、
「わたしはこの地球上のいかなるウイルスにも侵食されないよう作られている。心配はいらない」
 だから、来てくれたのか。
「そう」
 長門は何でもないように肯定した。
 正直、嬉しかった。寂しかったとかそんなありきたりなことは言わないさ。だが、うつるから来るなと言ったのは俺だと分かっていてもやはりあいつらに会いたいと思ってたんだからな。長門だけでも……いや、長門だから、か。来てくれて嬉しいぜ。
 長門は何も答えなかった。わりと長い睫毛に隠れて表情は読み取れない。その少し俯いた体勢のまま、言葉の変わりにお盆に乗ったおじやを差し出してきた。
「食べて」
 母親が長門に持たせたんだろう。客を無下に扱うなよな。
 蓋を開けてみると、これまたうまそうなおじやだった。母親もとうとう俺を労わる精神に目覚めたのかね。これだけで五大栄養素はバッチリ摂れそうな具沢山振りに加え、一番上にちょこんと乗っている梅干が嬉しい。
 意味もなく長門に一言断って口に運ぶと、朝食べたものとは別格の美味さが舌を刺激した。食欲はないが、これなら食べられるな。
「…おいしい?」
 声に誘導され長門を見ると、どことなく不安げな色を孕んだ目で俺を見つめている。もしかしてこれ、長門が作ってくれたのか?
「あなたの母親に頼んだら快諾をもらえた。自信作」
 そう言う長門の声はどこか誇らしげだ。
「わざわざ、うちのキッチンでか」
「嫌だった?」
 嫌じゃなさ。嫌なはずがない。むしろ飛び上がってワルツを踊りたくなるほど嬉しいぜ。
 長門がひとつ息を吐く。安堵の吐息に聞こえたのは俺の勘違いだろうか。
 もう一口おじやを口に運ぶ。お世辞抜きで美味い。思えばきちんと長門の料理を食ったのはこれが初めてだな。前に長門の家で食わせてもらった晩飯はレトルトカレーだったしさ。本当に何でもできるんだな、お前は。
「何でもできるわけではない。わたしには不可能なこともある」
 あるのか?何だ?
「それは………」
 長門は迷うかのように口を噤んだ。部屋のドアを見て、俺の手にある自作のおじやを見て、最後に俺を見る。
「……禁則事項」
 俺はガックリと項垂れた。しかも朝比奈さんのするような唇に指を当てる仕草付きときたら、これはもう項垂れるしかないだろう。可愛いぞ長門。発言は不可解だけどさ。
 妙に食が進んだおかげで意外とあっさり長門製おじやを完食し薬を飲んだ俺は、あんなに寝たのにも関わらず何故だか唐突に睡魔に襲われた。長門製おじやに睡眠欲を促す薬でも入ってたのかね。
「寝て」
 長門は横たわる俺を見つめている。澄み切った視線が今は心地良い。落ち着いた声も、何となく子守歌のようにふわふわと耳をくすぐる。
 ぼんやりとしてくる意識の中、俺は薄く目を開いた。無表情の中に見て取れる優しさは俺にしか解るまい。
 ――ありがとな、長門。
 最後まで言えたか分からない。声に出したかさえ不明だが……。
「……そう」
 薄れゆく意識の中で、長門が薄くはにかんだ気がした。



 次に目を覚ましたのは翌日の早朝だった。当たり前だが、長門はいない。学校に行ったらまずあいつに会いに行って礼を言わなきゃならんだろう。ただしハルヒにバレないように、な。
「……ん?」
 頭を押さえながら起き上がって、俺は気付いた。
 身体が軽い。
 だるくないと言えば嘘になるが、だがしかし昨日の数倍は身体が楽だった。熱を計ると、37度5分。まだ熱はあるが、インフルエンザにしては驚くべき速度で回復している。
「長門か……?」
 おじやの中に非科学的な何かが混入してあったか、はたまた俺が寝ている間に長門が熱を除去してくれたのだろうか。どっちにしても有り難い。これだけで随分違うもんだ。今日はまだやめておいたほうが懸命だが、明日は学校に行けるな。
 今日も国木田に学校に行けない旨を伝え、電話を切る。昨日はそのままくたばったのだが、今日は一度通話を切った携帯をすぐにまた操作した。俺の少なくも多くもない携帯メモリの、「な」行の上部を飾る名を持つ人物のデータの上で通話ボタンを押す。
 そいつはワンコールもしないうちに出た。まるで俺が電話するのを待っていたかのような早さだった。
『………』
「長門か?」
『…そう』
 いつもの三点リーダーが今は妙に心地良いぜ、長門。
「昨日はありがとな。大分楽になったよ。明日は学校に行けそうだ」
『そう』
 一言分の長門の澄んだ声を聞きながら、俺は目を瞑った。そして言う。
「悪いが、よければ今日も見舞いに来てくれないか。1人で寝てるのも寂しくてさ」
『…………………』
 長門のいつもより少し長いような気がする沈黙の後、
『……今日も、おじや?』
 少し小声の、まるで秘密を共有するかのような密やかな声が耳に届いた。
「今日はうどんがいいな。とびっきり美味いやつ、頼むぜ」
『了解した』
 浮かれた俺の言葉に長門は即答する。そのまま一言二言会話を交わして、電話を切った。
 さて、今日はどんなうどんにありつけるのかね。心底楽しみだぜ。
 じきに降るであろう宇宙人の澄んだ声と視線を反芻しながら、俺は心なしか幸せな気分で目を閉じた。