長門有希の獲得 わたしがわたしに戻った時、目の前には『わたし』がいた。 3年前に“彼ら”に持たせた記憶のある短針銃をわたしに向けていた『わたし』がゆっくりと手を降ろす。つられるように立ち上がり、眼鏡を取る。彼に指摘され、以来使わなくなった眼鏡を。 「同期を求める」 『わたし』は答えない。 わたしは知っている。わたしの中に溜まったバグ。エラーを起こし、世界を改変させた。そこで倒れている彼に選択権を委ねた。 そう、彼が倒れている。理由を検索。考えるまでもない。 朝倉涼子。 彼女が彼を刺した。それを目の前の『わたし』が修復したのだろう。『彼』の生命レベルは通常よりも僅かに低い程度。問題はない。 目の前の『わたし』に眼鏡はない。だからこれはわたしの異時間同位体。別世界に作り上げたわたしではなく、わたしの願望が一切入っていない、情報統合思念体に与えられたインターフェイス。 朝比奈みくるが二人いる。彼も二人いる。わたしも二人いる。 理解不能。検索すれば発見できそうな答えを、わたしは見つけることができない。鼓動が逸る。身体に馴染まない感覚が神経を撫でる。 「同期を求める」 わたしはもう一度言う。 文献の中でよく使われていた言葉、『焦り』という単語。知識としては知っていた。それを今、実感した。 「断る」 存外にも、『わたし』はきっぱりと言った。さらに理解不能。同期を断る理由が、わたしには解らない。彼女はわたしの未来存在であり、三年前のわたしがしたように同期して情報を共有することは難しくも何ともないはず。何か特別な理由があるのだとしても、わたしには解らない。 「なぜ」 「したくないから」 わたしは『わたし』を見つめた。譲りそうにない。この『わたし』は、今のわたしを経験している。きっとこれは規定事項。わたしは何も知らないまま『わたし』と別れるのだろう。 夜風に髪をなぶられる。短い部類に入る髪がわたしの耳元でさらさらと音を立てていた。耳障りな音ではないが、音のないこの空間ではそれが妙に耳につく。 「あなたが実行した世界改変をリセットする」 同じように夜風になぶられる髪を押さえもせずに『わたし』は言った。それが最善であり、彼の望む所であることは確か。わたしが拒否する理由はない。 「了解した」 情報統合思念体の存在を検索。宇宙範囲に検索を広げるが、存在を感知できない。これでは再改変を遂行できない。 「ここにはいない」 無表情の『わたし』は淡々と言う。 「わたしはわたしが現存した時空間の彼らと接続している。再改変はわたし主導でおこなう」 理解。そう、わたしは情報統合思念体を含め涼宮ハルヒの能力を消失させた。ここには情報統合思念体もいなければ超能力者も未来人もいない。目の前にいる『彼ら』は別として。 「再改変後、」 『わたし』がわたしを見る。わたしと同一の物とは思えないほど澄み切った瞳だった。 「あなたはあなたが思う行動を取れ」 首を傾げる。どういう意図で『わたし』はそう言ったのだろう。わたしにも解るのだろうか。いつになったら解るのだろうか。 『彼』を見る。『彼』もわたしを見ている。 過去の彼――つまりそこで倒れている彼は、わたしが作り上げた脱出路を見つけ出し、それを実現し、この世界を選んだ。涼宮ハルヒは超次元的能力を持ち、わたしは情報統合思念体に作られた対有機生命体用フューマナイドインターフェイスであり、古泉一樹、朝比奈みくるはそれぞれ超能力者と未来人であるこの世界を。 『彼』が彼を残し、朝比奈みくるを背負って去ってゆく。去り際、彼がわたしを見た。『彼』は彼を見て、わたしを見て、小さく頷いた気がした。 それだけで十分だった。 改変されて元通りになった世界のわたしの部屋で、わたしは情報統合思念体に接触を図った。現在状況を報告。わたしの処分を検討しているとの返答があった。 それは自然なこと。わたしがわたしでいる限り、バグはわたしの中に溜まり続ける。彼をこれ以上の脅威に曝さない為にはそれが最もベストな選択。そしてわたし以外のインターフェイスが彼の側に置かれ、彼と時間を共にしてゆくのだろう。 それは正しいこと。正解はそっち。わたしが間違い。間違いのわたしは、このまま何も言わずに消滅すべき。 だが、どうしてもわたしはわたしを止められなかった。きっと彼に会いに行ったらわたしの決断は揺らぐだろう。それでも一度謝罪したかった。彼にとんでもない経験をさせてしまったのはわたし。わたしの責任。否、そんなのは誤魔化しで、わたしはただ彼に会いたかっただけかもしれない。 やめたほうがいいと思った。それでもわたしは動き出した。誰もいない部屋に鍵をかけ、走り出す。空間移動すれば良かったと走り出してから後悔するが、彼に会いに行くにはこれが相応しいような気もした。 走り出してからは迷いは生まれなかった。 『わたし』は、わたしが自分のしたいことをすることを許可してくれたから。 きっと彼女も、こうしたと思うから。 診療時間の終了した病院は暗い。しかし問題はない。誰にも解らないように病院の中に入り込み、彼の存在を確認する。気配だけを察知しつつ病室に近付き、扉を開けた。 彼がわたしを見た。ベッドで横になっている彼の顔に驚きはない。 「全ての責任はわたしにある」 驚くほど落ち着いた声が出た。これがわたし。こうして、わたしは3年間観察対象を監視し続けてきた。 「わたしの処分が検討されている」 でも、それももう終わり。 彼の顔つきが変わる。眉が少しだけ上がり、不可解そうな表情を浮かべ、 「誰が検討してるんだ?」 「情報統合思念体」 さらにその眉間に皺を寄せ、不愉快そうに口を閉ざした。何故彼がこれほどまでに不愉快そうな顔をするのか、わたしには不明。彼にとってわたしはただの置物のような存在でしかなかったはず。そうなるよう努力した。しかしそうなりたくなかった自分がいた。 そう、これがわたしのバグの大きな原因。わたしはいつでも彼らを見守っていた。それがわたしの任務だったから。 それなのに、わたしはもっと彼の側にいたいと願ってしまった。朝比奈みくるのように、または涼宮ハルヒのように、騒ぎを起こして彼と気持ちを共有できる立場に立ちたかった。監視役のはずのわたしは、間違ってそれを望んでしまった。 でも、もう終わる。 もうすぐわたしはいなくなる。わたしがいなくなれば、わたしはこんな想いをしなくて済む。 ―――こんな想い? そうだ。 わたしは、やっと気付いた。 この気持ちに名前を付ける概念を持てた。 この胸を突き刺すような痛みの名を、知ることができた。 それが彼がくれた最後のプレゼントなのだとしたら、わたしはとんでもなく幸せな端末だったと思った。 「わたしが再び異常動作を起こさないという確証はない。わたしがここに存在し続ける限り、わたし内部のエラーも蓄積し続ける。その可能性がある。それはとても危険なこと」 わたしはそれを一息で言った。慈悲深い彼にわたしの消失を納得させる為のとっておきの理屈を。 謝罪の言葉は出ない。むしろこの場で口にするのはおかしい気さえした。 彼が唇を開く。わたしはその動きを予想して、 「くそったれと伝えろ」 胸にぽっかりと開いた穴が何かによって塞がれる感覚を感じた。 彼がわたしの手を掴む。僅かに痛みを感じる。しかしわたしは動かない。動けない。 「お前の親玉に言ってくれ。お前が消えるなり居なくなるなりしたら、いいか?俺は暴れるぞ」 それはわたしにとって予想外な答えだった。胸の痛みがじわじわと溶けてゆく。その感覚の名を、わたしはまだ知らない。 「何としてでもお前を取り戻しに行く。俺には何の能もないが、ハルヒをたきつけることくらいはできるんだ」 彼が真っ直ぐにわたしを見る。その瞳はわたしを通して誰かを見ているのではなく、ただわたしだけを見ていた。 「つべこべぬかすならハルヒと一緒に今度こそ世界を作り変えてやる。あの三日間みたいに、お前はいるが情報統合思念体なんぞはいない世界をな。さぞかし失望するだろうぜ。何が観察対象だ。知るか」 最後のほうはもはや吐き捨てるような口調だった。その怒りの矛先は、わたしの処分を検討している情報統合思念体に向いている。わたしの為に、彼は今感情を起伏させている。 嬉しい。 ただ単純に、純粋に、そう思った。 彼が掴んだわたしの手が血液不足で白くなっている。彼はそれに気付き、申し訳なさそうにわたしを見た。しかしわたしには、その僅かな痛みすら嬉しく感じられた。 「伝える」 小さく首肯する。それでもわたしは彼の瞳を見続けて、 「ありがとう」 言いたくて堪らなかった言葉を言った。 彼が一瞬驚いた表情を浮かべる。そして微笑して、ついには破顔した。 「どういたしまして」 わたしが居場所を見つけ出した瞬間だった。 |