曖昧温度計


 団活を終えてそのままいつも通りハルヒ達と別れた俺は、家まであと五歩の地点に差し掛かって唐突に買おうと思っていたシャーペンの芯を買い忘れたことを思い出した。
「まずったな……」
 シャーペンの芯、切れちまったんだよな。明日の学校で誰かに貰ってもいいが、それがハルヒでも谷口でも国木田でも何となく心地の悪い思いをすることは目に見えているし、さらに予備がないとやはり困る。せっかく鼻先に家があるのだが、ここは潔く戻るとするか。
 冬に差し掛かっている街中は、まだ6時半前だというのに既にドップリと夜に浸かっている。街灯がチカチカと健気に輝いているのを見て何となくお疲れ様と声を掛けたくなった。四六時中パシられている自分と重ねちまったもんでね。
 俺の家付近で一番近い文房具屋があるのは駅前だ。家を出てすぐそこにあるコンビニで買ってもいいが、種類が少ない上に無駄に値が張る。無駄な浪費をするよりは、少しくらい歩いてでも安く買いたいと思うのが俺だった。貧乏性とでも何とでも言ってくれ。こちとら毎週のように五人分の喫茶店代を払ってんだから、僅かな出費もかなりの痛手なのさ。
「まいどー」
 昔から通ってるおかげで微妙に顔馴染みの丸山文具館のおっちゃんに十円だけ安くしてもらい、俺はホクホクした気分で来た道を戻り始めた。ハルヒもあのくらい気前がよかったらいいのにと思う反面、あいつに今更そんなことを要求しても無駄だということも一秒で思いつく。あいつなら今日のことを話しても「男ならシャーペンの芯くらいコンビニでドバっと百個でも二百個でも買いなさいよ!」などと言いかねないしな。全く、誰のせいだと思ってんだ。
 息を吐くと、白くなりはしないもののその空気の冷たさを実感できた。夜の駅前は静かだが、一部では喧騒が広がっている。そっちの隅では酔っ払いの親父共が居酒屋の良し悪しについて大声で語り合ってるし、あっちの通りではヤンキー風の高校生がたかって………
「……ん?」
 そのイカツいヤンキー風高校生達の真ん中に見知った顔を見つけた気がして、俺は思わず目を見開いた。見間違いか?
 短い髪、細い身体、俺のよく知る棒のような立ち姿。間違いない。
「長門?」
 何故だか知らないが、長門が不良に絡まれていた。迷惑そうな顔のひとつもせずに無表情に徹する長門はいつも通りだったが、周りの奴らにはそうは映らないらしい。なんせ谷口が目を付けたAマイナーだからな。
 っていうか意外だ。朝比奈さんが絡まれてオドオドしてる姿はこの上なく容易に想像できるが、長門が絡まれるなんて実際に見るまでイメージする概念すら持てなかったぜ。こいつがそれなりに美少女なのは前々から分かっていたことだが、長門ならナチュラルにかわしそうだからな。ハルヒ?ハルヒはいつかのパラレルワールドで俺が声を掛けた時のように冷たくありらうだろうよ。
 って、悠長に解説してる場合じゃないな。ヤンキーの一人が長門の肩に手を付き、そのガメツい顔を長門の無表情に近付けた。途端にモワモワとしたよく分からない感情が胸を満たす。
 頭で考えるよりも早く、俺は駆け出していた。
「どこ行ってたんだよ長門。探したぞ」
 ヤンキーの間をくぐり抜け、長門の手を取る。長門が少し驚いた色を浮かべているのを十分見ないままに俺はズンズンと歩き出した。長門のちっこい手は相変わらずひんやり冷たい。
「おい待てよ! 何だテメェ!」
 ヤンキーの一人がそう突っかかって来るのを冷たく振り返り、俺はすぐそこにある交番を指差す。勤勉なお巡りさんがギラリと目を光らせていた。
 その視線を受け黙ったヤンキー共はお互い顔を見合わせ、誰かの「行こうぜ」という声を皮切りにすごすごと駅の向こう側に消えていった。そんな哀愁漂う背中に同情してやれるほど俺は優しい人間じゃないが、哀れな高校生達の将来の心配くらいはしてやろうと思う。ま、とりあえずお巡りさんに叱られないで済んでよかったよな。
「……どうして?」 
 大分歩いたところで、長門は小さくそう言った。相変わらず足りない物言いだが、長い付き合いでそのくらいの意図は分かる。
「シャーペンの芯買いに来たんだ」
「……そう」
 もういいかと立ち止まったのはいつか待ち合わせたベンチだった。ひんやりとした手を離しベンチを指差すと、長門はチョコンとそれに腰掛ける。目は俺に向いたままだ。
「なぁ長門、何で逃げなかったんだ? お前ならちょちょいと情報操作か何かして逃げるなんて朝飯前だろ」
 俺も長門の隣に腰掛けながら言うと、長門は一瞬間を置いて、
「……あなたはわたしが情報操作をすることに肯定的ではない。だからあまり使わないようにしている。技術も体得することが多くなった」
 ……マジか? 俺?
 一瞬考え、しかしすぐに納得する。例のコンピ研との対戦の時、俺は長門の情報操作を禁じた。野球大会の時も最初は何もせずに全うな結果を迎えるべきだと思っていたし、確かに肯定的ではないかもしれないが……。
「だからって危ないときは逃げなきゃ駄目だぞ。俺が通りかかったから良かったものの、あのままだとお前は危なかったんだからな」
 長門は僅かに首を傾げた。どういう意味か分からないみたいな、そんなキョトンとした表情だった。
 こいつはきっと自分のことをきちんと分かっていないんだ。自分にはハルヒの監視に必要な情報操作能力しかないと思ってる。外見が人並み以上であることとか、それが街では大いに男の目を引くことだとか、きっと全く分かっていない。ハルヒとはまた別の問題だな。あいつもあいつでただの注目度アップの為だけにバニーガールだのチャイナ服だの着始める奴だが、自分の容姿がそこそこの物だと分かっているハルヒと違って長門は自分の魅力すら分かってない。
「とにかく、気を付けろよ。危ないときは俺を呼べ。全速力で駆け付けてやるから」
 念を押すように言うと、多少瞳に何やら湛えつつも長門はコクンと頷いた。その反応に安心して、俺は立ち上がる。そして歩き出した俺を長門はいつかのように袖を引っ張って止めた。
「何だ? 長門」
「あなたの家はそっちではないはず」
 無表情のままなのは変わらないが、微妙に上目遣いで俺を見つめている長門は、こいつをAマイナーと賞した谷口に読み終わった本を投げつけてやりたいほど可愛かった。袖にかかる僅かな力もその感情を増幅させるぜ。
 俺はふっと笑い、長門の頭を撫でる。一瞬目を瞑ったその様が妙に心地よさそうで、いつまででも撫でてやりたい気分になったがそう都合よくはいかない。もう夜であって、明日も学校はあるんだ。早く家に帰って身体を休めるに越したことはないはずだしさ。
「女の子がこんな夜に一人歩きしちゃ駄目だろ。送ってやる」
 行くぞ、とばかりに手を差し出すと、長門はトテトテと近寄ってきてまた袖をやんわりと掴んだ。おい長門、別にいいんだけどさ、手差し出してんだからできたら袖を掴むのはやめて欲しいんだが……。
 長門は俺を見て、不思議そうに首を傾げた。ほれ、ともう一度手を差し出すと、そろそろとちっこい手が俺の手に触れる。身体が冷えたせいかさっきよりも幾分か冷たい気がする手を握り、俺は若干ゆっくりめの歩調で長門のマンションへ向けて歩き出した。長門に合わせるにしても遅すぎるその歩調が何を意図しているのかこいつに分かっているのかは知らないが、何も文句を言わずに俺の手を握り返した長門を見ると、何だかそんなことどうでもよくなってしまった俺だった。