間違いキス事件簿


 ビールを麦茶と間違えて飲んでしまった経験はないだろうか。俺はある。小学生の夏、夜中無性に腹が減って冷蔵庫を覗いたときに見えたその小麦色の液体を麦茶だと勘違いし、天からの恵みとばかりに一気飲みしたその液体がビールだったことを知り、噎せそうになるのを必死に堪えた記憶は未だに鮮明だ。あの時はもう一生ビールなんて飲むかと思ったね。
 ハルヒも同じようなことを言っていた。あいつは意外に酒にもタバコにもいい印象を持っていないらしく、鍋パーティーをした時も合宿に行ったときも、そういう場にありがちな酒祭は見られなかった。あ、映画のときの朝比奈さんに盛った酒は別としてな。古泉曰く、ハルヒもハルヒなりに反省したらしいし。
 それなら、今俺の目の前に広がっているこの光景は何なんだ。いや、絶景と言えば絶景なのだがだがしかし! っつーか何だ、何で俺はこんな目に遭わにゃならんのだ。
「何ブツブツ言ってんのよぅキョン! 早く早く! 男ならガーっといっちゃいなさいよ!」
 ガーっといけるならいってしまいたいさ心底な。しかしそんなことをして後で頭を抱えるのは自分であって、俺は未来の自分を反故にするほど自分を見失っちゃいない。今の段階は、だが。
「なーに言ってんのよぉ。ありがたくおとなしくなりなさいよ!」
 無駄に溌剌とした声で、しかし呂律が回っていないハルヒは意味不明な日本語を駆使し俺を楽しそうな目で眺めている。誰かこいつを止めてくれ。誰でもいいから。
 ここまで来ればもう分かると思うが、ハルヒは酔っていた。ついでに朝比奈さんはもう既に泥酔済みで、古泉は用があると言って酒が入る前に帰った。そして長門は―――
「もうまどろっこしいわねこの意気地なし! 有希! こうなったらあんたからやるしかないわ!」
「………」
 ハルヒがぐぐぐと押す長門の小柄な身体を俺は必死に押し返す。細い肩にできるだけ力を込めないように押し返しつつ見た長門の瞳はいつも通りだ。心なしか「いいの?」とでも言いたげなニュアンスが含まれているような気もするが、断じてよくないので気付かないフリをしておこう。
 どうしてこんなことになったのか? それを説明するにはおよそ一時間ほど前の記憶を辿らねばならない。



 その日ハルヒが持ってきた綺麗な桜色の液体はどうやら親戚からもらったものだそうで、家の冷蔵庫に残っていて勿体無かったから持って来たのだとハルヒは言った。俺もそれには何も言わなかった。ハルヒが家で余っていたジュースやらアイスやらを部室に持ってきたことは何度かあり、その度に俺達団員はタダでそれを食ったり飲んだりすることが許されたからだ。今回も喜ばしくその液体を部室にある小型冷蔵庫に受け入れ、冷えたのを確認してからコップに注いだ。今日ばかりは途中で帰宅した古泉が不憫に思えた。きっと今日中に飲み干してしまうんだろうからな。
「ほぉ」
 桜色のそのジュースは綺麗に澄み切っていて、端から見るだけでも美味そうだった。棚から出したコップにそれを注ぐ朝比奈さんも喜々としていたしな。
「どうぞ、涼宮さん」
「ありがとみくるちゃん。と言ってもウチのだからあたしが言うべきではないわね。でもいいわ。みんな、じゃんじゃん飲みなさい!」
 こういう時くらいは有難うと言っておくべきだろうな。ハルヒももっと常に気前よくいてくれたら良いのにな。例えば不思議探索ツアーでの喫茶店とかでさ。
 豪快にコップに七分目まで注いだジュースを一気飲みしたハルヒは、女子らしからぬ声で「ぷっはー!」と威勢よく叫んだ。朝比奈さんも美味しそうにちびちびそれを飲んでいたし、長門も何も言わずにゴクゴクと喉を動かしている。俺も飲んだが、結構うまかった。いつもは厄介事ばかりだが、ハルヒもたまにはいいもんを持ってくるな。
「みくるちゃん!もう一杯!」
「あ、はぁ〜い」
 酒のお代わりをねだる居酒屋のオヤジじゃないんだからそんな豪快にコップを突き出すのはやめろとその時は思ったのだが、俺のその例えがまさかアタリだったとはその時には気付かなかった。
 気付いたのは瓶の中身が大方なくなる頃だったのだが、そのジュース……いや、液体は、酒だったのだ。
 朝比奈さんが突如フラフラと愛らしく倒れる頃にはハルヒの顔にも朱が走っており、意外にも朝比奈さんのみならずハルヒも結構酒に弱いタチだったらしく、しかも朝比奈さんのように寝てくれれば良いもののハルヒは酔った勢いでそのまま暴れ始め、酒に強かったらしい俺とアルコールを摂取しても間違いなく身体の中で除去できそうな長門の二人に無理難題を押し付け始めた。
 俺には犬の真似をしなさいだのそこのテーブルでちゃぶ台返ししなさいだのと意味不明なことを命令し、長門には朝比奈さんのナース服を着せてみたりサイズの合わないバニーガール衣装を着せてみたりと着せ替え人形の任務を命じたハルヒが最後に言ったのは「もう面倒臭いから二人でキスしちゃって!」というものだった。
 面倒臭いからという理由がどう拗れて捻くり曲がってキスに辿りつくのか知らないが、俺がいくら拒否してもハルヒは断固譲らない。しかも長門も長門で何も抵抗せずに俺の前に立つし、俺はもう絶体絶命の危機に陥った。
 そして、今に至るわけだ。



「有希! あなたは次の映画の主演女優なのよ! 少しは度胸を見せなさい!」
「………」
 きゃんきゃんと吼えまくるハルヒに長門はいつもの三点リーダで返す。こいつまで酔ってなくて本当によかったぜ。ハルヒや朝比奈さんや古泉が狂っちまってもこいつにだけは正気でいて欲しいというのはハルヒ消失事件からの俺の願いだ。
「何ボケっとしてんのよキョン! あんた本当に男なの? それとも有希が嫌いなの?」
「……………」
 ハルヒのその発言に長門が若干含みのある視線を送ってくる。それを見て俺は溜息の嵐だ。
 嫌いじゃないさ。っつーか俺は長門にキスするのが嫌だとかそういうんじゃなくてこんな所でこんな風にするのが嫌な訳で……っていや違う! あぁもう訳わかんなくなってきたぞ。やっぱり俺も多少酔ってるのか?
 精神の不安定のせいか酒のせいかグルグルと目回ってきた俺にチャンスだと思ったのか、ハルヒがニヤリと笑った。そして長門の身体をドンと突き押して、
「く……っ」
 差し迫った唇にふと正気を取り戻した俺が咄嗟に長門の身体を受け止めて顔を逸らす。どうやら未遂ですんだらしい。どういう反応をしているだろうかと恐る恐るハルヒを見ると、
「くかー」
 ハルヒはふにゃふにゃと崩れ落ち、大口を開けて寝始めた。



 そのまま酔い潰れた二人を部室に放置するわけにもいかないので長門と手分けして二人を家に届け、俺はやっと安堵の息を吐いた。朝比奈さんの身体を軽々と持ち上げて背負って見せた長門にもびっくりだったが、俺が背負うことになったハルヒの身体の柔らかさにもびっくりだ。前に背負った朝比奈さんにも劣らないかもしれんな。あいつも黙っていればそれなりの女なのに、全く残念としか言いようがないぜ。
 というわけで俺は今長門と肩を並べて歩いているわけなのだが、長門は朝比奈さんを担いで欲しいと言った俺に頷いて以降何も言葉を発していない。どこかピリピリとした雰囲気が俺の肌を撫でるのは何故だろう。いや、大体分かってはいるのだが。
「その……どうした? 長門。何か怒ってないか?」
「怒ってなどいない」
 即答しやがった。ならこの雰囲気は何だ。
「あなたの勘違い」
 あぁそうかい。そりゃ残念だ。
「……?」
 長門が一ミリほど首を傾げる。歩いているうちにいつの間にか長門のマンションの前まで来ていた。ここが俺達の分岐点だ。
 さてどう問いかけようと考え、酒のせいか僅かに浮かれた頭で内心ほくそ笑む。長門はそんな俺をじっと見つめていた。ピリピリした雰囲気は和らいでいる。
「残念だったか?」
 省略した言葉。しかしその短い発言に含めた感情、意味。
 それだけでこいつには十分だったようで、長門は一瞬俯いた。長門より頭二つ分ほど上にある俺からその表情が窺えなくなる。
 十分すぎるほどのタイムラグ。その間に長門が何を思ったのかは知らんが、
「……残念だった」
 長門は俯いたままそう言った。
 それは、俺の求めていた答えそのままだった。
「じゃあ、またな」
 求めていた答えが得られて満足した俺はそのままくるりと踵を返す。その「またな」が「また明日」以外のニュアンスを含んでいることに長門なら気付いてくれるだろうという確信を抱きつつ一人寂しく帰路を辿った俺の頬を、冷たい北風が撫でていった。火照った頬には気持ちいいぜ。
「……あつ」
 ペチペチと頬を叩く。顔が熱い気がするのは、酒のせいだと誤魔化させてほしい。
 そう、せめて、「またの機会」が訪れるまでは、さ。