『光』


 俺を本名で呼んでくれる人間など片手で数えられる程しかいない。あまり仲良くない女子は殆ど話さないので割愛させていただくとして、せいぜい教師くらいだ。っつーかうちのクラスの人間の殆どが俺の本名など知らないんじゃないか? クラスではハルヒがキョンキョンキョンキョンキョンと喧しく騒ぎ立てるし、一緒にいる谷口や国木田もキョンという間抜けた呼び名を崩さない。しかも家に帰れば妹や母親にもキョンくんと呼ばれ、どうしてか俺はこの決して良くはないが呼びにくくもない微妙なあだ名と一生つるんで行かなくてはならないかもしれないという人生最大の悩みを抱えていた。いや、そんなことは今回の話とは何も関係ないのだが。つまり俺はこのあだ名がこんなにも普及している理由を思考するのに忙しかったのだ。
「キョンくん」
 何かと思って振り向けば、そこには予想外の人物がいた。
「阪中?」
「何で疑問系なの?」
 いや、俺をその名で呼ぶ人間は限られているからな。っていうかお前も俺をその名で呼ぶのか。
「だっていいあだ名と思うのね。呼びやすいし、可愛いもの」
 いやいやいや男があだ名を可愛いといわれて喜ぶと思うのか喜ぶのは古泉のような少しトチ狂った変態だけだなどと小一時間ほど問い詰めたい気分だったのだが、にっこり笑う阪中の笑顔からはどう頑張っても他意は見つけられず、俺は一人自分の境遇の惨めさを嘆くのだった。
「あのね、キョンくん。長門さんと仲良いでしょ?」
 仲が良いかと聞かれればイエスと答える仲であることは確かだが……長門がどうかしたのか?
「これ、書いてほしいのね。長門さんに」
 これ、という言葉と共に差し出されたのは可愛らしいウサギ柄の小さな紙――プロフィール帳だった。随分目にしていなかったが、中学ではどこもかしこも女は大抵これを持ち歩いて知り合った奴には書くよう頼み込んでいたな。俺も何度か書かされたことがある。俺の知っている女で周りに惑わされず我関せずを貫いていたのは佐々木くらいなもんだ。
 だが阪中。どうしてこんなもんを長門に書かせなきゃならんのだ? 言っておくが、あいつに書かせても楽しいことなんか全くないと思うぞ?
「ファンになっちゃったの」
 ……ファンですと?
「前にルソーを救い出してくれたでしょう?あれから何度か長門さんを見かけたりしてたのね。そしたら、長門さん何でもできるんだもの。あたし、尊敬しちゃった」
 あいつが何でも出来るのは俺も勿論承知の上だが、長門にファンが出来るとは意外だな。中河の時は情報統合思念体絡みだったが、今回はどうも違うらしい。
「だから、頼むだけ頼んでみてほしいのね。断られたらそれでいいから」
 そこまで言われたら断る理由を作り出すほど俺のボキャブラリーは多くない。よく分からないままに薄っぺらいプロフィール帳を受け取って、俺はそれをポケットに入れて立ち上がった。言い忘れていたが今は昼休みで、学食に旅立っているハルヒはいない。長門なら部室にいるだろうから、渡しがてらサイトの更新でもするか。



 もう目を瞑ってでも歩けるだろうと思えるほど身体が馴染んでしまった部室への道を辿り、俺は誰かに会うこともなく目的の場所に辿りついた。昼休みは朝比奈さんは部室にいないので、ノックをせずに扉を開ける。
「よっ、長門」
 予想通り隅っこのパイプ椅子に腰掛けて本を読む長門。こいつは一体いつ飯を食っているのだろう。誰かリサーチしてくれないか?
「今日は頼みごとがあって来たんだ。うちのクラスの阪中、覚えてるか?」
 問いかけるまでもないことを知りつつ聞くと、案の定長門は首を縦に振る。もし地球がひっくり返っても、長門が一度知り合った人物を忘れるはずがない。
「そいつが長門にコレを書いてほしいんだとさ」
 そう言いつつ手の中のプロフィール帳を差し出すと、長門の吸い込まれそうなほどに底の見えない視線が俺の手の上の紙切れに注がれた。俺の手が見られてるわけじゃないのに妙に威圧感を感じるのは何故だろう。
 長門は暫しそれを見つめていたが、すぐに顔を上げ、
「別にかまわない」
 いつもの無表情でそう言った。想像はしていたが、予想通りの答えで安心したぜ。
「今書く。かして」
 言われるままにそれを手渡すと、長門は何処からか取り出したボールペンで器用に本の上でそれを書き始めた。長門の明朝体はファンシーなプロフィール帳にそぐわない堅さを醸し出していて、妙に笑える。
 その間暇な俺はパソコンを立ち上げ気紛れにネットサーフィンを始める。何分か過ぎたところでサイトの更新をしようと思っていたことを思い出すが、更新する内容も取り立てて見つからないのでネットサーフィンを再開しようとしていると、
「書けた」
 背後から長門が声をかけてきた。
 驚かさないでくれよと言いたいところだが、こいつに気配がないのはいつものことだ。前にもこんなことがあったよな。その時は栞入りの本を貸してくれたっけ。
「ありがとな、長門。渡しておく」
「いい」
 俺がお礼を言うのもどうかと思ったが、言い出したのは阪中でも頼んだのは俺だからまぁいいかと自己完結を済ませた。昼休みが残り僅かになり、しかし今教室に帰っても中途半端なので何気なく長門の明朝体の恩恵を受けたプロフィール帳を眺めていた俺は、
「ん……?」
 質問のある項目に差し掛かったとき、思わず疑問符を浮かべてしまった。
「おい長門、ここの……」
 ええい面倒臭い。直接聞こう。
「お前の誕生日って、七月七日なのか?」
 俺は今まで知らなかった。俺が知らなかったならハルヒだって知らないだろう。というかまずこいつに誕生日があったことさえ知らなかったんだからな。宇宙人に作られた対有機生命体用ヒューマナイドインターフェイスにも誕生日はあるのか。するとこれは、生み出された日付とかか?
 いや、待てよ。長門が生みだされたのは朝倉や長門の言い分からすると三年前。三年前の七月七日と言われて「それ何だっけ?」と惚けられるほど俺は平和ボケしてない。
 一回目は朝比奈(小)と共に、二回目は朝比奈さん(大)と、俺はこいつに会いに行った。二回とも長門に助けを求めちまった苦々しい想い出だが、あの時長門があそこで待機してくれていなかったら俺は今ここにいなかっただろう。
 その時、長門は既に今の姿だった。変わったのは眼鏡をしていないことくらいで、その他は取り立てて変化はない。生まれたときからその姿だったとしても、あの日生み出されてそのまま俺達の助けに応じたのだとすると違和感がある。
「もしかして、」
 言いかけて、止めた。調子よく物事を考えすぎだ。都合があってその日付を誕生日に指定しているのかもしれないし、もしくは本当にあの日に生み出されたのかもしれない。
「……いや、何でもない。悪いな」
 妙に気まずくなって部室を去ろうと背を向ける。一人で空回って立ち去る俺はそこらでちんけな演技をしてる大道芸人よりも滑稽だぜ。
 早々に教室に帰って阪中にこれを渡して自分の席で太陽の日差しでも浴びようそうそれがいいと部室の扉を開けたその時、
「あなたはわたしに光をくれた」
 空気を裂くほどに静かな声で、長門は言った。
 驚いて振り返ると、長門はすぐそこにいる。頭二つ分ほど下にある真摯な視線が俺を見つめていた。
「あの日までわたしはただ観察対象を見守るだけの何もない毎日を過ごしていた。それが当然だと思っていた。それがわたしの役目だったから」
 それなのに、と長門は続ける。
「あなたはわたしに会いに来てくれた」
 時間移動した三年前の夏、インターホンを鳴らした時の長門の沈黙を思い出す。
 あの時こいつは、何を考えて俺達の入室を許可したのだろう。
「何もなかったわたしの世界に色をくれた。わたしには、それが光だった」
 無表情のままの長門は、一言一言、小さく噛み締めるように言う。
「わたしが生み出されたのはもう少し前。でも、わたしは確かにその日に生まれた」
 チャイムが鳴る。後5分で授業が始めるとの忠告をしてくれる予鈴という名のそれを、俺はどこかBGMのように聞いていた。
「あなたはわたしを生み出してくれた」
 言葉を失った俺の胸に、トンと額が乗せられる。それが緩く倒れ掛かってきた長門の物だと知るのに、数秒のタイムラグが必要だった。
 俺の胸に少しだけ顔を埋めた長門は小鹿のように儚い仕草で俺のシャツを握る。そして、何事もなかったかのように俺の横を通り過ぎた。
「……ありがとう」
 弾かれるように振り返ると、長門の背中はもう既に米粒ほどに小さく遠のいている。俺も教室に戻らないと、そろそろ授業が始まっちまう。いや、だがしかし。
「……反則だろ、長門」
 少し前まで俺の鼓膜を刺激していた静かな声を反芻する。
 長門は俺に生み出されたと言った。助けを求めに三年前の長門を訪ねた俺に、光をもらったと。
 世界が、色付いたと。
 三年前に時間遡行した俺は二回とも必死だった。一回目は元の時空に帰れなくなるかもしれなったし、二回目は俺の知っている世界がなくなるかもしれなかったんだ。それらを防ぐために、俺は長門に会いに行った。長門は、二回ともきちんと応じてくれた。
 時間凍結して俺達を三年間ずっと部屋に寝かせておいてくれた長門。そして、世界を改変した長門を正常化する短針銃を持たせてくれた。改変に巻き込まれるからと言って、長門製ナノマシンを注入してくれた。
 そして再改変した世界、俺の病室で言った「ありがとう」という言葉。
 こっちの長門の無表情、そしてパラレルワールドの長門の僅かな微笑み、驚いたような表情、頬を染めた俯き顔、それらが全部思い出されて、そして説明しがたい感情が俺の胸を埋め尽くした。 
「……まいった」
 意味もなく呟いて、俺はやっと動き出す。とてもじゃないが授業を受ける気にはならなかったから、その足で屋上に向かった。階段を上がり、屋上のドアを開ける。
 真上に来たばかりの太陽は、容赦なく屋上のコンクリートを照らしていた。ぬくぬくとしていて暖かい。これならその気がなくても眠くなるってもんだ。
 フェンスに凭れ、太陽を見上げる。その日も太陽は大きくて真ん丸で、暖かかった。
 ありがとう、と、静かな声がもう一度耳をよぎる。
「こちらこそ」
 真上の太陽に向かって呟く。網膜を太陽光線が刺激して、しかし俺は目を逸らさなかった。

 ―――『光』が、見えた気がした。