オレンジ


 俺はある女の子に恋をした。
 小さな女の子だ。あぁこれは年齢的にではなく体型的な話であって、俺は断じてロリコンではない。そしてそう、小柄で、北高の制服がよく似合っていて、髪の短い、可愛らしい女の子だった。
 俺は彼女を三年前から知っている。駅前の本屋でバイトし始めて四年目になる俺は、彼女がここの常連であることにとっくに気付いていた。これまた愛らしいことに体型は三年前から全くと言っていいほど変わっていない。表には出さずそれをこっそり気にしている彼女を妄想……いや想像して萌えたことが一体何回あっただろう! ………いや、何でもない。聞かなかったことにしてくれ。
 二年前、この本屋にウェルカムカードなるものができた。ウェルカムカードを持っているお客様には買う際にそれを提示していただく。使うごとにポイントが溜まってゆき、ポイントが一杯になったら商品を五百円値引きできるという画期的なカードだ。常連の少女ももちろんそのカードを店頭で作った。
 そしてそこで初めて、俺は少女の名前が長門有希なのだと知った。
 素晴らしい名前だと思った。彼女の親に会ってみたい。どうしてこんな素敵な名前が付けられるのだろう。いや、まぁごくありふれた名前かもしれないが、少女が持っているだけでなんとも素晴らしい名前に思われた。俺は結婚後のことも考え………いや、何でもない。信愛の情を、そう、信愛の情を込めて「有希さん」と呼ぶことにした。もちろん心の中で。
 有希さんは多くて毎日、少なくとも一週間に三回は俺の本屋を訪れていた。俺は、彼女に会う時間を少しでも多くするため店長に頼み込みバイトを毎日入れてもらった。いっそのことここの正社員になって堂々と居座ろうかと思ったのだが、正社員は正社員で裏方の仕事が多くあまりレジにはいられない。レジにいなければ意味がないのだ。彼女に――有希さんに会えなければ意味がないのだ。
 しかし彼女は店に訪れても本を買わないことが多かった。本のタイトルを眺めて、作者を確認して、たまに立ち読みして、そして去ってゆく。その意図を、俺は知らない。
 彼女はきっと俺を知っている。何度か内緒で値引きしたこともあるし……いや、店長には内緒だぞ? ……こんだけずっとレジに座ってりゃ誰でも覚えると思う。しかし俺は彼女に話し掛けたことがなかった。何となく寡黙そうなイメージがあったしそれが有希さんには似つかわしい気がしていたのだ。常に無表情なのに本を前にすると幾分か楽しそうな表情を見せる、そんな有希さんを端から眺めているだけで俺は十分だった。その微妙な変化を見つけられるようになったこの眼力が俺は誇らしくて仕方ない。目標の本に向かってトテトテと可愛らしく歩いてゆくその仕草や、たまに本を買ったら店を出てすぐ読み始めるそのひたむきさに俺はもうメロメロだった。その姿を目におさめる為、俺は毎日本をとっかえひっかえしながら彼女の来店を待つのだ。


 しかし今年になって、有希さんは急に店に来る頻度が減った。減ったといっても週に二回は来るのだが、俺は寂しかった。学校の環境が変わったのだろうか? それとも図書館かどこかに通うようにでもなったのか?
 逆に、店に訪れてもあまり本を買わなかった有希さんが頻繁に本を買うようになった。来る回数は減ったが、有希さんが俺のいるレジに近付く回数は増えた。嬉しいような悲しいような、複雑な心境だ。数と密度の関係について芳しく思考を巡らす程度には俺は有希さんに会える時間を心待ちにしていたのさ。
「ごっちゃん」
「……なんすか店長」
 奥で札束を数えていた店長が俺に声を掛けてくる。「ごっちゃん」っていうのは、「後藤」というありふれた名字を店長がもじって付けた俺のあだ名だ。気に入っていない。断じて気に入っていない。今時あだ名で呼ばれて喜ぶ男が何処にいる。しかも「ちゃん」だぜ?
「最近あの子あまり来なくなったね。ほらあの、髪の短い眼鏡の子」
「最近は眼鏡してないですけどね。まぁ、あんまり来なくなりました」
 やる気なさげに同意しておいた。店長はニヤニヤと俺を見ている。もしかしてバレてんのか? まぁバレてもしょうがないよな。涙ながらに毎日シフト入れてもらうよう頼み込んだのは俺だし。
 それはさておき、そう、有希さんは最近眼鏡をしていない。ショートカットに眼鏡が有希さんのチャームポイントだったのだが、しかし眼鏡を外した有希さんは美人度三割り増しだった。コンタクトにしたのかな。今までずっと眼鏡だったのに、誰かに言われたのか? 誰かは知らんが、名も知らぬそいつに礼くらいは言っておこうじゃないか。グッジョブだぞお前。俺に眼福をくれてありがとう。
 その時、僅かな機械音と共に自動ドアが開いた。
「…!…いらっしゃいませ」
 来た。有希さんだ。
 今日も北高の制服姿で来店する有希さん。前回はファンタジー小説を買っていったが、今日は古書らしい。古書コーナーに真っ直ぐ進んでいく背中を微笑ましく見て、俺は頬杖をついた。あぁ可愛らしいね。俺もあと三年遅く生まれてれば有希さんと一緒に高校生活をエンジョイできたのかもしれないのにな。残念だ。
 あらかじめ目を付けていたのか、すぐに目的の本を持って俺のレジへ来た有希さんがウェルカムカードを俺に手渡す。スキャンでカードのバーコードを取り込んで、ポイントがまた追加された。あと三冊買ったら満杯になるな。
 大きな瞳を真っ直ぐに俺の手元に向ける有希さんの視線を受けながら、俺はその古書を一割引にしてあげた。普通ならポイントクーポン券などがないと割引してはいけないのだが、有希さんは特別だ。内緒だぞ、と言わんばかりに微笑んで、俺はお釣りをその小さな手に手渡す。
「またおいでね」
 有希さんの瞳が俺に向いた。小さく俺に向かって会釈し、背を向けて自動ドアをくぐる。その背中を見ながら、俺は大層幸せな気分に浸るのだった。
 後ろで店長が爆笑していた気もするのだが、気付かないフリをしておいた。っていうか値引きしたの見られたか? 
 ……とまぁ、ここまでは幸せだった。
 悲劇は突然やってくるものだ。物語でも何でもそうだろう。ってなわけで現実もそうなのだ。
 そいつは……そう、その男は、何食わぬ顔で俺の目の前に現れた。


 有希さんが古書を買っていってから数日経ち、俺がまた寂しい思いをしている最中、有希さんの輝かしいお姿が自動ドアをくぐって店内を明るく照らした。その姿に俺は一瞬で癒される。お久しぶりですと言いたいが、残念ながら俺達はまだそんな間柄ではない。
「……ん?」
 いつもは入ってすぐに何処かしらのコーナーへ歩いてゆく有希さんが、今日は入り口で何やら外を見て立ち止まった。誰か待ってるのか? 俺がそう思ったその時、 
「悪いな、長門」
 後から男が入ってきた。そこそこ長身の、平凡な顔立ちの男だった。
「消しゴムは?」
「あったよ。買った」
「そう」
「あぁ」
 有希さんが誰かと話しているのを初めて聞いた。っていうか有希さんの声を初めて聞いた。
 その男との会話で、初めて聞いた。
「お前は何買うんだ?」
「今日は評論」
「今日はって……長門お前、どんだけ来てんだよ」
「それなりに」
「………」
 男が苦笑する。そして有希さんの頭にポンと手を乗せ、そして二人して店の奥へ消えていった。そんな二つの影を見て、俺は憤慨する。
 何だあの男! 誰の許可を得て有希さんの隣にいやがるあの男! こんにゃろこんにゃろっていうか有希さんあなたどうしていきなり男連れ!? 友達ですよね友達なんですよねそうですよね!!
 俺はムンクの叫びに劣らないほどの貧相な顔を見事表現したままレジの机に突っ伏した。ああショックだ。っていうかショックだ。彼氏か? 彼氏なのか? はっきりしてくれお願いだから!
 暫し時間が過ぎ、有希さんが一冊の本を持って俺のレジへ来た。勿論その隣には男の姿がある。
 ムンク化していた顔に営業スマイルを貼り付け、俺は商品のバーコードをスキャンで取り込んだ。値段を告げて、有希さんが財布を取り出すその仕草をぼんやりと眺めていると、
「………」
 男がいきなり有希さんのその動作を止めた。そして自分の鞄に手を突っ込み、シンプルな財布を取り出す。呆然とする有希さんに笑いかけながら、そいつは俺に向かって千円札を差し出した。
 驚いたのは俺だけではない。有希さんもだ。「待って」だの「それはわたしの」だのぼそぼそと言って男のその行動を止めようとする有希さんだったが、男は聞く耳を持たない。
 それでも譲ろうとしない有希さんが男の袖を引っ張って止めようとすると、そいつはやんわりと有希さんを見下ろした。なんていうか、小動物を見るような、赤ん坊を見るような、そんな優しい眼差しだった。
「いつも世話になってんだから、これくらいさせてくれ」
 有希さんがピクリと手を止め、ゆるゆるとそれを下ろす。そしてミリ単位で頷いたその瞳は、表現しがたいほどの愛しさに満ちていた。

 ―――あぁ、好きなんだな。

 微細すぎる変化。だが、三年間ずっと有希さんを見続けていた俺には分かっちまった。有希さんは、こいつが好きなんだと。たまらなく好きなんだと。
 千円札を受け取って、釣銭を返す。この大きな手の持ち主が有希さんをどう思っているのか、俺には分からない。俺はこの男を今日初めて見たんだから当たり前だ。
 有希さんが男にお礼を言って、男は笑いながら彼女に買った本を手渡す。その本を大事そうに抱える有希さんは、女の子だった。一人の男性に恋をする、一人の女の子だった。
 自動ドアが閉まる。ウィーンと音を立てるそのドアが完全に閉まったその瞬間、俺は椅子の背も垂れに身を任せて天井を仰いだ。小さなこの店の天井は、少し黒ずんでいる。
 失恋は悲しいものだという。俺は今失恋した。二人が付き合っていてもいなくても、有希さんがあの男を好きなのは明確なのだからこれは完璧な失恋だ。俺の恋は、終わったのだ。
 しかし俺は悲しくなかった。よく物語でブルーに例えられるその感情は、俺の心をブルーにはしなかった。むしろ暖色系の何かが俺の心をふわふわと満たしている。
 この気持ちは何なんだろうと考えて、俺は気付いた。
 今まで俺は恋をしていた。その恋は、終わってしまった。
 しかし俺の心には新しいものが芽生えた。そしてそれは、失恋の痛手を鎮痛剤のように癒してくれている。
 有希さんはこれからもこの店を訪れるだろう。もしかしたら、またあの男と一緒に。
 そしたら俺はまた店長には内緒で値引きをしてあげようと思う。そして、またおいでねと笑ってやろうと思う。
 幸福を祈るための、オレンジ色の気持ちを込めて。