Useless north wind


 ドラマでもアニメでも漫画でも小説でも、大抵の父親は娘馬鹿だ。娘の彼氏が挨拶に来た時に言う『お前なんぞに娘はやらん!』といった頑固親父オーラを全面にアピールしたどうもやるせなくなる怒鳴り文句も聞き飽きたものだった。お前なんぞにっつっても、きっと誰が来てもそう言うのだろうにな。来た相手によって怒鳴り文句を都合よく使い分けられるほど今時の親父達のボキャブラリーは豊かでないと思うのだが、果たして俺が親父になって娘が彼氏を連れてきた時に何と言うかと問われても即答することはどう考えてもできず、いつの時代になっても父親は父親なのだという何とも虚しくも意味のない結論に至るのだった。
 それに対して、母親は概してそういった類の話に寛容である。娘に彼氏がいることを実は母親だけが知っていて「あらあなた知らなかったの?」と父親の驚愕を誘うシーンも俺は何度かテレビや漫画などで目にしたことがあるしな。もうすぐ中学生になるというのにまだ小学三年生にしか見えないうちの妹が彼氏を連れてくるのは一体いつになるんだろう。それはそれで楽しみな気もする。
 とまぁ今まで長々とイントロダクション的考察を無意味に語ってきたわけなのだが、俺が言いたいのは俺の母親も例に漏れずその手の類の話になるといきなり耳をそばだてるってことなのだ。そして俺は、そうする機会を母親に与えちまった。いや、実際には俺が与えた訳ではないのだが、母親が俺の周りのそういった浮ついた話に興味を抱き始めちまったのは嫌になるほど確たる事実であり、俺の憂鬱を買っている訳なのである。
「ねぇねぇ、誰なの? 彼女なの? 可愛い子だったわよねぇ」
 そう言って母親は手を組み視線を宙に浮かせた。この年になって夢見る少女気取りですか、お母様。
「女の子はいつだって女の子なのよ」
 はぁ、そうでございますか。もう勝手にしてくれよ。
 母親がこうなっちまったきっかけは俺の風邪だった。いや違う。インフルエンザだったな。
 先日俺は未だ嘗て経験したことのないほどのインフルウイルスに蝕まれ、瀕死状態だった。ハルヒ達の見舞いは断ったのだが、そんな中寂しい思いをしていた俺のもとにやって来たのは、何を隠そう我がSOS団の万能選手、長門有希だったのだ。
 長門は母親に許可を取り、俺に病人食を作ってくれた。その時、母親の対色恋沙汰スイッチはオンモードになってしまったらしい。完全に回復した俺が朝リビングに出ていった母親が発した言葉は典型的な挨拶では断じてなく、あの可愛い女の子はあなたの彼女なのかそうでないのかという矢継ぎ早 な質問だったのだ。その時は学校の支度を言い訳に首尾よく逃げ出したのだが、学校から帰ってきて リビングでのんびりテレビを見ていたら、迂闊にも捕まっちまった。
 そして、今に至る訳である。
「有希ちゃんって言うのよね? 北高の子よね。いつ知り合ったの?」
 待てどうしてお袋が長門の名を知っているのだと問いかけようと口を開く前に、母親の隣で妹がにんまりと笑った。くそ、犯人はお前か。プライバシーの侵害で逮捕してやる。
「キョンくんねー、古泉くんには厳しいのに有希ちゃんには優しいんだよー」
「あら、もうラブラブなのね」
 ラブラブって何だ。っつーか古泉と長門を比べるなよな。確かに古泉と長門じゃ月とスッポンの差があるさ。悪いか。
「ってわけで、キョンくん」
 母親がにっこり笑って俺にウインクして見せた。ええいやめなさい。目に毒だから。
「明日有希ちゃん連れて来て。連れてこなかったら」
 どうしてそうなる。っつーか俺の言い分は全部却下か。などと突っ込もうとした俺に構わず母親はそこで一呼吸分置いて、こう言ってのけた。 
「罰金だから!」
 ……何処から仕込んだんですか、そのネタ。



 なんて言いつつも従っちまう俺は一体何なのだろう。これじゃ母親の思うツボだと思いつつも、帰宅途中の俺の隣には何故か宇宙人製対有機生命体用ヒューマナイドインターフェースがいた。昼休みのうちにハルヒに感づかれないよう手配し、ハルヒに感づかれないよう慎重に待ち合わせ、そしてハルヒに感づかれないよう辺りに気を配りながら歩いている俺の苦労は一体何なんだ。この苦労に対する賃金はないのか。何か得るものがなきゃ割に合わねぇぞ。小遣いアップは必至だな。
「あー…なんつーか、悪いな」
 帰路を共にしながら隣に向かってそう言うと、無口な文芸部員はただ「いい」とだけ口にした。長門は一体どこまで分かって俺に付いてきてくれたのだろう。というか、俺が寝ている間に母親におじやを作らせて欲しいと頼んだ長門は一体何を思ってそう頼んだのだろう。大層嬉しかったのは確かだが、恥ずかしくはなかったのかと思っちまうぞ。
「母親がさ、連れて来いって煩くて。妹も会いたがってるし……うん、だからだな……」
「いい。わたしももう一度会いたいと思っていた」
 …そうなのか?
「……面白い人だった」
 一体マイマザーは長門に何をしたのだろう。いらんこと吹き込んだんじゃないだろうな。例えば俺が小学生まで誰かと一緒じゃなきゃ眠れなかったこととか。
 などと思考を巡らせているうちにいつの間にか自宅は目の前にあり、門を開けて長門を促し家に入った。この時間、母親はせっせと夕食を作っている。
「…お邪魔します」
 長門が小さくそう言う。何処か畏まったような身体の動かし方が妙に可愛い。もしかしてこいつなりに緊張しているとかだったり………はしないよな。まさか。
「有希ちゃんいらっしゃーい!」
 真っ先に出てきたのは妹だった。合宿やその他モロモロの行事ですっかりSOS団のメンツに馴染んだ妹は、まるで友達にするかのように長門の手を引いてリビングへと連れてゆく。ある意味では微笑ましい光景なのだが、今の俺の心情的にはそんな朗らかな気分にはなれなかった。まず母親の誤解を解かねば長門に迷惑がかかりかねないからな。
 溜息をつきつつリビングへ行くと、早くもキッチンテーブルに腰掛けた妹が長門に椅子を促し、長門もそれに座っていた。時間を見ると、もう七時近い。そうか、学校帰りに連れて来いってことは夕食を食べてけってことだよな。
 エプロンで手を拭きつつキッチンから出てきた母親が一瞬で目をシャミセンの目ほどに細め、俺に「ちゃんと連れてきたんじゃない」的な含みある視線を送ってきた。ええい忌々しい。俺だって連れてくる気はなかったさ。魔が差しただけだ。
「有希ちゃん、いらっしゃい」
 っていうか何だ、その猫なで声は。長門とシャミセンは違うぞ。
「…お邪魔してます」
「ごめんね、いきなり呼んじゃって。どうしても会いたくて」
「いえ」
「ゆっくりして行ってね」
「ありがとう、ございます」
 長門が母親を見つめたまま少し身を縮めて小さく会釈した。それだけのやり取りで大層満足したらしい母親がふにゃんと顔を緩め、また俺を見る。今度は「可愛い子ねぇ〜。キョンくん、いい目してるわね」的な俺を讃える視線だ。嬉しくない。断じて嬉しくない。長門の可愛さを褒めるなら情報統合思念体に言ってやったらどうだ?
 俺の反応に微笑んだ母親はスプーンをテーブルに置き、
「キョンくん、今日はカレーにしたからね。もうできたから、準備して」
 と手伝いを命じた。やれやれと思いつつキッチンへ向かおうと俺が動いたその時、
「………」
 俺は長門の目が輝いているのを見た。
 長門がゴクリと喉を鳴らす。そんなヒューマナイドインターフェースを見ながら、俺はいつぞやの長門製レトルトカレーを思い出していた。もしや、こいつの好物はカレーなのか? しかも、その単語を聞いただけで目を輝かせるほどの。
「あー…長門」
「なに」
 どうしてかその返答は妙に早かった。
「カレー、好きなのか?」
「好き」
 不思議探索ツアーで図書館に連れてやったときのような、満足感満載の視線が俺を見ていた。
 長門がそんなにカレー好きだったとか思わなかったぜ。俺的長門のお気に入りリストにカレーが付け加えられた。母親からしてみれば恐らく適当に選んだメニューなんだろうが、ここまで喜んでくれるならよかったじゃないか。
 ちょこんと椅子に腰掛けてカレーを待つ長門の為にも迅速にカレーを皿に盛り、俺達は夕食にありついた。食べながらの母親のこれまた矢継ぎ早な質問にボソボソと答えつつもカレーにありつく長門を見るのは、宇宙人と未来人との食事会と同じくらい乙なものだと思う。谷口辺りに言ったら全力で羨ましがられそうだ。
 結局カレーを三杯お代わりした長門に母親は満足げで、もう遅いからということで送って行けという命令を受けた俺は長門の背を押し早々に家を出た。これ以上家にいたら間違いなくマイマザーは余計なことを言っていただろう。今日は長門のカレー好きが幸いして助かったな。
「また来てね、有希ちゃん」
「有希ちゃんまたねー!」
 母親と妹に笑顔で手を振られ、長門はどこかほくほくした表情でペコリとお辞儀した。母親の笑みが深くなる。こりゃ、原稿用紙三枚分ほどの弁解を練らねばどう足掻いても誤解を解けそうにないな。



 冬の夜空は、星が綺麗に煌いていた。オリオン座がキラキラ輝いているのを見ながら、俺は隣を歩く長門の気配を読む。満足げではあっても不機嫌そうでは決してない。迷惑じゃなかったようでよかったぜ。カレー様々だな。
「今日はありがとな、長門」
「いい」
 静かな声は相変わらずだ。
「……楽しかった」
 そりゃよかったぜ。母親に言ったら大層喜ぶだろうよ。
 コートを着込んだ身体が寒さに震える。吐いた息が白くくゆるのを見て、もうすぐ一年の最低気温を観測する季節が来るのだとぼんやり思った。冬という季節は毎年やってくるものだが、今年はどこか違うような気がするのは俺が今非日常なポジションに属しているからだろうか。少なくとも、中学生だった去年までの俺は冬の星空をこんな気持ちで見上げたことはなかったね。
 いつの間にか慣れ親しんじまった長門のマンションに辿り着き、俺はその日の任務を終えた。マンションをバックに振り返った長門に言ってやる。
「よかったらまた来てやってくれな。母親も妹も喜ぶからさ」
 母親が妙なことを口走らないかには注意しねばならんが、それを除けば長門の新しい一面を知れるという意味で実に貴重な経験だった。自惚れかもしれんが、こんな長門を知っているのは全世界でも俺だけだと思う。長門が親玉である情報統合思念体とどれだけコミュニケーションをとっているのかは知らんが、三年間も生み出したインターフェースをただ待機モードにさせておくような親玉にこのポジションは譲りたくないね。
 長門は何故か一度俯いた。暗い中で読み取れなくなった表情に俺が一抹の不安を抱いていると、透き通った目が俺を射抜いて、
「……約束」
 気付いたときには、ほっそりした小指が俺に向かって差し出されていた。
 驚いたのは数秒だ。一瞬つい目を見開いちまった俺はしかしすぐにその目を細め、差し出された小指に自分の小指を絡ませる。
「ああ、約束だ」
 冬の寒空の下、絡めた小指だけがほんのり暖かかった。
 一つ頷いてマンションの中に吸い込まれてゆく長門の背中を最後まで見送ってから、俺はまた同じ道を辿って帰路に着く。帰ったらどこから母親に説明しようかと考えて、別に誤解されたままでも構わないかもしれないという結論に至った俺の頭は、どうやら冬の北風でも冷やすことが出来ないらしかった。