長門有希の羨望


『……っていうか計画なわけ。だから有希、あんたの家を使わせて欲しいのよ。あたしんちでもいいんだけどさ、親いるし、あんまり騒げないじゃない。どうせならワイワイ作ったほうが楽しいし』
「………そう」
『ってことなんだけど、いい?』
「いい」
『有希ならそう言ってくれると思ったわ! じゃあみくるちゃんにはあたしから言っておくから。ボールとかゴムベラはある?』
「……ある」
『…今の間は何よ。買うつもりならあたしが持ってくわよ?』
「へいき」
『…ふぅん。いいけどさ。じゃあ必要な道具は任せたわよ。買い物は三人でしましょ』
「わかった」
『キョンには内緒だからね! 何聞かれても言っちゃ駄目よ?』
「…わかった」
『じゃあよろしくね有希。じゃあね』
「………」
 二月十四日は、バレンタインというイベントがあるらしい。
 知識としては知っていた。バレンタインデー、日本では、女子が男子にチョコレートを渡す日。
 涼宮ハルヒはそのイベントに乗じて、とある陰謀を企てた。彼女の頭の回転は賞賛に値するところ。その陰謀の為にわたしの家を使いたいらしく、電話をしてきた。異論を答える理由がない私は、勿論それを許可した。
 彼らと出会うまでは、静かに読書をするのが好きだった。一人でもそうしていれば寂しくなかったから。だが、わたしはもう周りに仲間がいる安心感を知ってしまった。そうしてわたしは、一人ではいられなくなった。
 トゥルルルルル。
 とりあえず制服を着替えて晩御飯にしようと動き出すと、またもや電話が鳴る。わたしの家の電話に掛けてくるのは、SOS団の誰かしか有り得ない。その中でも朝比奈みくるは有り得ないから、きっとその他の四人だろう。涼宮ハルヒが何か言い忘れたのかもしれないと思い電話に出ると、その先で聞こえた声は存外に意外な響きを以ってわたしの耳に届いた。
『俺だ』
「………」
 いつもの沈黙。何も言わなくても彼が話し出すことを知っている故の傲慢。
『明日のことでちょっと頼みたいことがあるんだ。パトロールのメンツをいつもクジで決めてるよな? 明日と明後日、その割り当てを細工してほしい』
「そう」
 いつも通りの安定感のある彼の声は、そのまま要件を述べる。
『そうなんだ。明日の午後の回と、明後日の初っぱな、俺とお前が組むようにしてくれないか?』「…………………」
 その時わたしは、思わず言葉を失った。
 一緒にしてほしいということは彼はわたしと一緒に行動したいという訳で、涼宮ハルヒや朝比奈みくるではなくわたしを選んでくれたということになる。しかも、わざわざわたしに頼んで情報操作をさせるほどのことらしい。エラー発生。思考回路が単純化。エラー治療ナノマシンの自己作成に失敗した。だが、それを繰り返す気にはなれなかった。
 できるだけ平穏を装いつつ返事をすると、彼はどこか訝しげに声を潜める。
「やってくれるんだな?」
「解った」
 安心したような色の混じった彼の声を聞きながら、わたしは今日はレトルトカレー五袋は余裕かもしれないと妙に浮かれたような思考回路を漂っていた。ほんの少し考えればわかるであろう彼の本当の 意図を考えることをしなかったのは、わたしがそれを望まなかったという、ただそれだけの理由の為。
 彼に少し前まで話していた涼宮ハルヒとの電話の件を聞かれ、当たり障りのない返答で彼に心配させる事態を避けようと努める。そうしながらも、わたしは明日の午後について考えを巡らしていた。できることなら、また、図書館に行きたいと思った。
 最後に明日のことについて念を押され、電話が切れる。きっと今頃受話器を置きながら例の得意文句を呟いているだろう彼の姿を思い浮かべながら、わたしはキッチンへと歩く。鍋に水を入れ沸騰させ、その中にレトルトカレーを五パック投げ入れた。ポチャンと音を立て湯の中で泳ぐそれらを見つめ、わたしは彼の声を反芻する。
 閉じた瞼の裏に一瞬だけ映った栗色の髪の主については考えないようにして、それに成功したわたしは、今日もカレー用の大きなお皿に大量のご飯をよそって温まったレトルトカレーをかけ流した。スパイシーな香りがキッチンを満たして、その香りはわたしの心をも満たしてくれた。



「キョンくん、……あ。と、長門さん……」
 しかし翌日の午後彼と共に行った図書館には、わたしの心の底では既に予測できていた人物がいた。
 予測、できていた。昨日確かに頭をよぎった。だがそれを考えないようにしたのは、ただわたしが夢心地な気分でいたかったという身勝手な理由に帰属する。彼のせいではない。勿論、彼女――朝比奈みくるのせいでもない。
「………」
 それでもわたしの唇は何の言葉も紡がなかった。
 朝比奈みくるがこの時空に二人いるのは既知の事実。先日わたしは、掃除用具入れにいる彼女の存在を感知した。彼女は通常ならばここにはいないはずの存在。ならばやるべきことがあってこの時空に来ているに違いないのに、わたしはそれを敢えて考えないようにしていた。
 彼の慌てたような説明を聞きながら、わたしは彼を見る。彼の隣で朝比奈みくるがわたしを見て、彼を見て、少しだけ目を細めた。その表情の変化の意図をわたしは知らない。
「行きましょうか、朝比奈さん」
 わたしが理解したことを悟った彼が朝比奈みくるを促して図書館を後にする。その二人の後ろ姿を何となく見たくないような気がして、わたしは早々に図書館の奥へと向かった。そう、今日は、思い切り哲学的で理論的な文献が読みたいかもしれない。そのほうが、何にも心を囚われずに済むかもしれない。
 図書館で本を読む、という行為がこれほどまでに退屈に感じられたのはこれが初めてだった。同期を不可能に設定したことをここまで後悔したのも初めてだと思われる。未来に囚われたくなくて能力を封じた自分の判断は正しかったと自負しているが、ここまでもどかしい思いをするならば、と思ってしまう。今のわたしは完全なエラー状態。彼が戻って来るまでに修正する必要がある。その為には本にのめり込むことが必要で、意識してそれを実行したわたしが再び視線を上げたのは涼宮ハルヒ達との待ち合わせの数十分前になってからだった。
「待たせた。すまない」
 その時わたしを現実に戻したのはやはりと言うべきか彼の落ち着いた声で、それがわたしを狂わせる。わたしは、何度彼に救われるのだろう。彼が原因で生じたエラーは、何故彼によってこんなにも簡単に静まるのだろう。
 先刻ここを出て行った時と全く同じ姿で帰ってきた彼は当然ながら朝比奈みくるを連れておらず、その代わりに小型記録装置を持っていた。それについて歩きながら説明するわたしを、彼はじっと見つめる。嫌だと言いつつも結局はこうしてひたむきに私達のことに関わってくれる彼のこの寛容な性格が、涼宮ハルヒが一般人の彼を気に入った要因の一つなのだろう。
「ああ、そういえば、長門」
 彼は僅かに前を歩くわたしに向かってそう言った。その声はどこか躊躇するような、そんな感覚を以てわたしに届く。
「今日はすまなかった」
 思わず歩調を緩めてしまい、わたしは問いただすように後ろを歩く彼を振り返った。
「いや、たからさ、朝比奈さんを連れて行くって昨日言ってなかっただろ? 説明抜きで願い事をしたのは我ながらどうかと思ったんだよ」
 何故彼はそんなことを言うのだろう。覗き込んだ瞳には確かに申し訳なさそうな色が孕まれていたが、しかしその奥にもまだ何かありそうだった。
 じっと彼を見つめ続けたわたしに観念したように息を吐いた彼は、とうとう白状する。歩調を緩めたままの速度でも風になびく彼の髪は、意外と柔らかいのかもしれないと思った。
「朝比奈さんに謝っておくよう言われたんだ。とにかく、すまなかった」
「……そう」
 何故…? 何故、彼はそんなことを言うのだろう。彼にとってのわたしの位置は、これが正しいはずなのに。
 もどかしくて本にのめり込んだわたし。彼の申し訳なさそうな表情。色付いた、謝罪の言葉。
 それらがグルグルと混ざり合って、色を変える。溶けてくゆったそこには、あたたかい何かがあった。
「そう」
 彼は、わたしの“感情”を気遣ってくれていた。



 その翌日も不思議探索ツアーが決行され、わたしは彼とわたしが共に行動できるよう情報操作を施した。彼と共に涼宮ハルヒと朝比奈みくる、古泉一樹が背を向けて遠ざかっていくのを眺めてから、彼はわたしに今日は一人で図書館に行って欲しい旨を伝える。了承の言葉を述べると、彼は少し控えめな声で言う。
「長門、俺と朝比奈さんが何をやってるのか、お前には解るか?」
「必要なこと」
 きっとそれは自分の行動を正当化したい故の物ではなく、ただ純粋に答えを知りたいという澄み切った問いだった。
 彼の質問に答えながら、わたしは彼を見ずに空を見上げる。彼に背を向けて図書館への道を歩き出したわたしを彼は戸惑いつつも追ってきた。
「誰にとって必要なことだ?」
「あなたと朝比奈みくる」
 そう明言すると、そこにお前は入らないのかと問われた。それは、わたしにはまだ解らない。わたしが介入する要素が含まれればわたしは動くし、古泉一樹が必要な要素があれば彼が動くだろう。ただ一つ正しいのは、わたし達はひとつだということ。困っている姿を、見捨てはしないということ。
「進む方向は同じ。わたしも、あなたも」
 あなたが困るようなことが起こるのなら、わたしはその障害を取り除きたいと思う。それが、わたしに許されたたった一つの幸福だと思う。それをすれば、彼はありがとうと言ってくれるから。
 わたし達は出会った。それが必然にしろ偶然にしろ、出会ってしまった。もうきっと、わたしは彼らを忘れることはできない。彼らもそうだといいと思う。そう思うように、わたしはなってしまった。
 何となく彼を振り返るのが憚られて、わたしはそのまま図書館へと向かった。今度は後を追ってこない。彼には、使命があるから。彼の――わたし達の未来を守るための、使命があるから。
「ありがとよ、長門」
 もうかなり遠くにいるはずの彼が小声で言った。わたしに聞いて欲しかったのか、または聞かれたくないから小声で言ったのかは解らない。しかしわたしは聞いてしまった。
 わたしはまた一つ、幸福を噛み締めた。



 図書館に着き、本を手に取る。コートを着ているわたしにとって空調が適温に調節されている図書館の気温は僅かに暑く感じられたが、コートを脱ぐ気にはなれなかったので放っておいた。
 どれほどそうしていたか解らない。ただ、今日は自然と本に集中できていたことは確かだった。昨日のように、意識的に本の沼に飛び込むような作業は必要なかった。
 彼が戻ってきていないということはそこまで時間は経っていないはずだが、わたしは時間を確認するために顔を上げる。図書館の大きな時計は、彼が出発してから五十分経過していることを示していた。彼は確か一時間ほどで戻れると言ったから、そろそろ戻ってくるかもしれない。わたしがそう思考したその時だった。
「長門さん」
 聞き覚えのある、しかしいつも聞いている物とは違う声がわたしの鼓膜を震わせた。
「お久しぶりです」
 本を持ち視線を上げたわたしにそう笑いかけたのは、朝比奈みくるの異時間同位体だった。以前会ったのは世界改変を実行しに過去に戻ったときだろうか。あれは新年が明けてすぐのことだったから、確かに久しぶりになるのかもしれない。
「ちょっと、いいですか?」
 彼女は図書館の休憩スペースを指差す。ここで話をするのは、多少周りの迷惑に鳴るかもしれないとの彼女なりの配慮だろう。わたしは頷き、本を置いて歩き出した。彼女がヒールをコツコツと鳴らしながらわたしに付いてくる。
 休憩スペースに辿り付き、彼女は一度息を吐く。どの時代でも朝比奈みくるがわたしを苦手としていることはわたしも自覚していた。彼女は、わたしと一緒にいると落ち着かないらしい。わたしも彼女と一緒にいると形容し難い思いに駆られた。今目の前にいる彼女の過去存在がわたしの家から退却したのはまだ記憶に新しい。あれは、まだ数日前の出来事なのだから。
 朝比奈みくるは一度顔を伏せ、
「まずは、大切なことから言いますね」
 そう前置きして、わたしを真摯に見つめながら言った。
「過去の……今キョンくんと行動を共にしているはずのわたしが、たった今古泉くんの機関に敵対する存在に誘拐されました」
「………」
 目を見開いたわたしに対し、朝比奈みくるは落ち着いた声で続ける。
「大丈夫。古泉くんの機関の森さんと新川さんが助けてくれます。キョンくんもそれに付いて『わたし』を追いかけて行ったから、キョンくんが戻ってくるのはもう少し遅くなります。でも、大丈夫だから」
 念を押すように彼女は言った。情報統合思念体から何も伝えられていなかったわたしは、その事実に多少動揺する。何故情報統合思念体はわたしにその情報を流さなかったのだろう。情報共有は最重要の原則とされているはずなのに。
「わたしがあなたに伝えるのが規定事項だったんです」
 思考したわたしに、朝比奈みくるはすんなりと答えをくれた。
「長門さん。わたしとあなたが……あ、これは今ここにいるわたしという訳ではなくて、朝比奈みくるとあなたが、という意味なんだけど……わたしとあなたが、こうやってゆっくり話す時間を取れるのはこれが最初で最後なの。だから、言います」
 真っ直ぐなのにどこか震えているような響きを持つ声が静かにわたしに届く。大人びた風貌の朝比奈みくるはわたしを見下ろし、何かを決心するように唇をきつく結んでから話し出した。
「長門さん……わたしは、あなたがずっと羨ましかった」
 空調がふわりと彼女の髪を揺らす。それにも構わず、彼女は続けた。
「あなたは、いつもキョンくんと一緒に事件に対面してた。いつも、キョンくんを助けてあげられていた。力のないわたしは、それがずっとずっと、羨ましかったの。長門さんみたいにキョンくんを助けてあげたくて、キョンくんの力になりたくていろいろ頑張ったけど、過去のわたしはそれをすることを許可されていなかった」
 朝比奈みくるが最初にわたしと会ったのは、三年前の七夕。普段わたしと学校生活を共にしている方の彼女が彼と共にわたしのマンションを訪れ、わたしは彼と彼女を凍結した。そしてその後すぐ、彼とともにわたしを訪ねてきたのは、今目の前にいる朝比奈みくるのほうだった。
「ものすごく、もどかしかったわ。もっと力になりたいのになれなくて、わたしはいつも助けられてばっかりで、今だって、わたしは何処かで古泉くんの機関に助けられてる。そんな自分が、嫌いで仕方なかったの」
 心なしか彼女の瞳は潤んでいた。それでも必死に言葉を紡ぐ姿を、わたしはじっと見つめていた。
「でも、気付いたんです。わたしはわたしで、長門さんは長門さんなんだって。わたしは長門さんにはなれない。だから、わたしはわたしにできることをしようって」
 そこまで言って、彼女は続ける言葉を失ったらしかった。震える唇は言葉を紡がずパクパクと動いて、しかしそのまま閉じられる。
 わたしも……そう、わたしも、彼女に言いたいことがあった。わたしは……わたしも……。
「わたしも……わたしも、あなたが羨ましかった」
 彼女のように、彼に安らぎを与えてあげられる存在になりたかった。しかしそれは、わたしには無理だった。
 わたしの言葉に驚いたように瞬いた彼女は、ふっと笑顔を取り戻す。一度腕時計を確認して、もう一度わたしを見た。
「…知ってました。でもわたしも、あなたが羨ましかったの」
 そこで一度言葉を切り、彼女は続ける。
「あと一時間くらいで『わたし』とキョンくんがここに帰ってきます。あなたに、お願い」
 成長して長身になった朝比奈みくるがわたしの背の高さまで僅かに屈んで、わたし達は同じ目線で見つめ合った。ルージュの引かれた薄い唇が、ゆっくりと動き出す。
「これから、いろんなことがあります。大変なことも、楽しいことも……たくさん。だからあなたは、キョンくんを助けてあげて。キョンくんが一番頼りにしているのはあなたなの。あなたがいなくなって、一番困るのは彼のはずよ」
 解っているでしょう? と彼女は続けた。わたしは頷かなかった。しかし首を横に振ることもせず、ただ目の前の瞳を見つめ続けた。
「長門さん。だからこれからも、『わたし』達をよろしくお願いします。あなたは、もうSOS団には不可欠な存在なんだから」
 それで言いたいことは言い尽くしたのか、朝比奈みくるが屈めていた背を元に戻した。ふふ、と密やかに笑い、ポシェットの中からゆっくりと封筒を取り出す。それをわたしに差し出して、
「これ、キョンくんに渡してくださいね。あと、『わたしをよろしく』って言っておいてください」
「……了解した」
 そう答え封筒を受け取ると、朝比奈みくるは一つ会釈して去っていった。図書館を出て左に曲がるところまでガラス越しに見て、しかしそこで彼女は視界から消える。それから間もなくして、彼女は現在時空から消失した。
 わたしは、これからも彼の側にいたいと思う。それが許される限りはできるだけ、側にいたいと思う。
 わたしは朝比奈みくるが羨ましかった。彼と困難を共にできる彼女が羨ましかった。涼宮ハルヒのことも、羨ましかった。彼は、いい意味にせよ悪い意味にせよ、いつも彼女のことを考えているから。
 大人の朝比奈みくるの言葉が蘇ってくる。彼女は、自分は自分で、わたしはわたしなのだと言った。その言葉は、わたしの心に深く根付いた。
 サラララと軽い音がして意識を取り戻すと、空調になぶられた髪が揺れている。それでやっと、わたしは自分が考え事をしていたことに気付いた。時計を見上げると、針は朝比奈みくるが去ってから一時間経とうとしていることを示していた。きっと、もうすぐ彼が帰ってくる。朝比奈みくるの話で失念していたけれど、果たして彼は被害を被らなかったのだろうか。彼は、無事だろうか。
 そこはかとなく不安になり、図書館を出て彼を待つ。すると彼は存外にすぐ現れた。眠っている朝比奈みくるを背負って図書館に歩いてきた彼がわたしを見てホッと息を吐く。それと同じくしてわたしも心の中で安堵の息を吐いた。
「無事で良かった」
 誰に聞いたんだと問いかけてきた彼に朝比奈みくるの異時間同意体の件を告げ、預かっていた封筒を渡す。眠っている朝比奈みくるに触れ、脳に小さな刺激を送り込んだ。
「……んんー……あふ……ふぁっ?」
 朝比奈みくるが目を覚ます。大きな目をパッチリと開いて、
「わわっ。キョンくん……あれっ? あたし、どうしてオンブなんか、あ、な、長門さん……」
 彼女はあたふたと慌て、彼の背から降りた。彼が誘拐の件について伝えると、朝比奈みくるは安心したためか笑顔を取り戻した。それを見て彼が目を細める。やっぱり、羨ましいかもしれない。
 それでもわたしはわたしで、彼女は彼女。それを、彼女自身が教えてくれた。わざわざ苦手なはずのわたしに会いに来て、教えてくれた。
「あ、その手紙……」
 朝比奈みくるが彼の手の中にある封筒に目を留めた。彼が僅かに身じろぎする。
「それ、いつ……?」
 その問いに彼がわたしに届いたと答えると、朝比奈みくるは大きく目を開く。
「長門さんに……?」
 パチクリと瞬いた彼女は、意を決したように唇を開いた。先程聞いていたものとは僅かに違う、少し子供じみたような声がわたしに向かう。
「な、長門さん。これをあなたに渡したのって、もしかしたら……あ、」
「言わない」
 きっぱりと言う。それは彼女の為でもあり、わたしの為でもあった。
 彼女は大人になって様々なことを悟り、過去のわたしに会いにいかなければならない。そして、言わなければならない。わたしに、あなたはあなただと。そうでないと……言ってくれないと、わたしは困る。
「あなたも、いずれ知る時が来る」
 朝比奈みくるはわたしを見たまま固まっている。強ばっている身体の力を抜くことすら思いつかない様子の彼女に、わたしは言った。
「それは自分自身で知ること」
 わたしは、わたし。
 彼女は、彼女。
 わたしは彼女が羨ましかった。否、これからもきっとその気持ちは消えない。わたしが彼を想う限り、その気持ちは消えない。
 だが、解った。
 わたしには、わたしにしか出来ないことがある。彼女には、彼女にしかできないことがある。だから、わたしはわたしでいいのだと。十二月の中旬に爆発したエラーの原因になった羨望。それは、持たなくていいものなのだと。
 わたしはわたしとして、彼を助けよう。そして、わたしはわたしとして、彼の側にいよう。許される限り、ずっと。
 そう、思った。