涼宮ハルヒの涕涙


 朝教室に行くと、いつかのようにハルヒが机に突っ伏していた。あの日寄り添っていた朝倉の姿はないが、俺はその様子にどこかデジャブを感じる。ハルヒがここまでへこたれるのは割と珍しいことだから、印象に残りやすいのかもな。
「今日はどうしたんだ?」
 自分の席に着き、ハルヒの後頭部を眺める。柔らかそうな髪がピクリと揺れて、しかし言葉による返答はなかった。どうやら我が団長様は団員の言葉に耳を貸せないほど弱っているらしい。今のハルヒはロールプレイングゲームでいうちょうどHPが赤くなった頃合だろう。もう一度怪物に出会ったらジ・エンドだな。薬草を差し上げるべきだ。
 だが本当にどうしたんだ? ハルヒの憂鬱は何度か見たことがあるが、ここまで弱ってるハルヒを見るのは初めてだぞ。
「……何か、あったのか?」
 心なしか気遣いを含んだ声で再度問いかけてみても、やはり返答はない。ううむ、これは重症じゃないか? 自称ハルヒの精神世界のエキスパートである某副団長様は何やってんだ。もしや今まさに閉鎖空間で神人とやらと格闘中だったりするのか?
「……ハルヒ」
 そろそろ本気で心配になり、丸まった背中に手を伸ばす。しかし俺がハルヒの背中にチョンと触れたとき、
「………っ!?」
 今までずっと伏せていたハルヒが急にビクンと起き上がった。ひどく脅えたような目で俺を見たハルヒが、華奢な腕で身体を守るようにして身を引く。その大きな瞳は、獣に見つかった兎のようがするような恐怖丸出しの色を孕んでいた。一見すれば泣き出しそうに見えるのだが……本当にどうした?
「触らないで」
 ピシャリ、ハルヒが言い切る。それを聞いて俺はさらに面食らった。今日のハルヒは明らかにおかしい。何かあったとしか思えない。いや……だがそれ以上に、俺はショックだった。ハルヒに拒絶されたのは入学当初以来で、もう二度とそんなことはないだろうと思っていたからな。あまりの驚きに言葉が出ないが、ハルヒも同じようだった。自分の発言を今更ながら自覚したようにハッとして俯いたハルヒは、その体勢のまま唇を震わせる。
「……ごめん」
 ポツリと小さな言葉が朝の教室に落ちた。
「ちょっとイライラしてて……うん、何でもないの。あんたは気にしなくていいから」
 気にしなくていいからと言われても気になってしょうがないんだが、ハルヒがまた机に突っ伏しちまったせいで追求することもできず、俺は目を伏せて岡部のどでかい出欠を聞き流していた。ハルヒの生命力を吸い取ったかのように今日も一段と元気な我が担任は、突っ伏したまま出欠に返事をしないハルヒにもさして動揺することなく無事にHRを終わらせてくださる。終わってすぐ後ろを振り向くと、どういうわけかハルヒの姿は座席から消えていた。
 ハルヒはいつも元気だ。元気がありすぎてこっちが困るくらい元気だ。忌々しいと言いつつもやはりハルヒの溌剌とした号令を聞かないとやる気が出ないし、ハルヒがここまで弱ってるとやはりどうも心配になる。普段あんなに元気なのにも関わらずいきなりこんなローテンションになるから周りはそのテンションの高低に付いていけないんだよ。このままだと俺の体力に限界が来るぞ。是非とも早急にテンションを元通りにしていただきたい。……いや、こんなのはただの屁理屈だな。つまり俺はただ……、
「本当にどうしたんだよ……ハルヒ……」
 早く普段通りのあいつに会いたかっただけなんだ。

 

 その日、ハルヒはそれこそ入学当初のように休み時間になると途端に姿をくらまし、そして授業が始まるチャイムと共に戻ってきていた。阪中によるとどうやらハルヒは毎時間トイレの手を洗う所で何をするでもなくただ突っ立っているらしい。どうしたのか聞いても「何でもない」の一点張りらしく、俺に向かって涼宮さんはどうしたのかと聞いてきた。全く、俺が聞きたいっつの。
 気になって仕方なかった俺は三限の現国が終わった後古泉の所に行き閉鎖空間が生まれてないか聞いてみたが、どうやら閉鎖空間とは相変わらずご無沙汰らしい。逆に「どういう風の吹き回しですか?」と驚かれてしまった。ええい忌々しい。俺だってこんなこと聞きたくないさ。
 そして昼休み、俺はいつもならハルヒがいるはずの学食に行ってみた。悪くはないはずの視力を駆使して隅から隅まで眺めてみたんだが、どこを探しても見慣れた黄色いカチューシャは見当たらなかった。もしや俺を避けてるのか? 休み時間に教室にいないのは、俺に話しかけられるのが嫌だからか? そう思い昨日一日を脳内で思い返してみたのだが、昨日は特に何が起こるでもなくいつも通り古泉とオセロをして帰路についたはずだ。思い当たる節は全くない。無意識で何かしちまったんなら話は別だが、今までの経験上あいつが俺に怒っているときはその体表面のオーラでビシバシ俺を叩きつけてくるはずだ。今回はそれがない。
 学食のテーブルで弁当を食おうと思っていたんだが、ハルヒがいないならその計画も意味を為さなくなっちまった。仕方ない、部室で食べるか。いい回答が得られるにしろ得られないにしろ、長門に話したら少しは落ち着ける気がするしな。
 ノックをせずに部室に入ると、長門はいつも通りパイプ椅子で本を読んでいた。今日は横文字がズラリと並んだ厚物だ。それが英語なのかドイツ語なのか、はたまた未だ解明されていない古代言語なのか、俺にはさっぱり分からない。
「長門、ちょっといいか?」
「なに」
 落ち着かない様子の俺に違和感を感じたのか、長門は珍しくハードカバーから顔を上げて返答する。透き通った瞳が俺を見た。
「今日、ハルヒがおかしいんだ。なんつーか……うまく言えないんだが、とりあえず弱ってるんだ。休み時間は何の目的もなくトイレで過ごしてるらしいし、今見に行ってきたんだが学食にもいない。なのにも関わらず古泉曰わく閉鎖空間は生まれていないらしいんだ。俺にはさっぱり解らん。長門、何か心当たりないか?」
 恐らくないだろうと知りつつ聞くと、長門は少し躊躇しつつも予想通り首を横に振った。古泉の専門分野な憂鬱ではないらしいし、長門にも解らないとなると……こりゃもうお手上げだな。一体何なんだ? いつかのように鶴屋家の宝の地図でも鼻先にぶら下げれば元気になるのか?
「……心配?」
 長門は言う。それは、何処か哀愁漂う声色だった。
 そりゃ心配っちゃ心配さ。一応曲がりなりにもSOS団の団員その一なんだからな。団員が団長様の胸中を気遣ってもバチは当たらないだろ。
「……そう」
 吸い込まんばかりに俺を見つめていた透き通った瞳が伏せられる。何故か少し間を置いて返答した長門は、そのまま立ち上がって部室を出て行った。予鈴まではまだ時間があるんだが、こいつもこいつでどこかおかしい。普段なら予鈴がなるまでパイプ椅子から根を生やしたように動かないのにな。俺、何か気に障ること言ったか?
「…どうすっかなぁ………」
 部室で一人呟いても勿論返答はない。途端にむなしくなり、俺は部室を後にした。本鈴ギリギリに戻った教室に、ハルヒの姿は見当たらなかった。

 

 さて、放課後だ。
 ハルヒの姿は五、六時間目には既になく、しかし鞄は残されていた。携帯にかけてみようとも思ったがやはりそれは戸惑われ、未だ行方知らずである。ハルヒの不在を馬鹿みたいに喜んでいたのは谷口くらいで、クラスの大半はハルヒを心配する言葉を俺に投げ掛けてきた。人気者になったもんだなぁ、ハルヒ。
 いつもの文芸部室も、ハルヒがいないだけで静かな空気が漂う。さっき何処かおかしかった長門も放課後には元通りになっており、朝比奈さんは相変わらず可愛らしいマイエンジェルで、古泉は古泉でいつも通りだった。いつもと違うのは、ハルヒがいないということだけだ。
「今日はこれで終わりにしましょうか」
 俺とボードゲームで五分五分の状況を作り出していた古泉が急にそう言いだした。
「涼宮さんはいませんし、誰かさんも心ここにあらずなようですし」
 そして含みありげに俺を見る。誰が心ここにあらずだ。
「自覚していませんか? あなたは少なくともゲーム開始から半刻かけても僕を倒せないほど腕が鈍ってはいなかったはずですが」
「………」
 隣で編み物をしていた朝比奈さんが盤上を覗き込み、長門が本から目を上げた。言われてみれば、このボードゲームで俺が古泉を負かすまでに三十分以上かかったことがない。この盤上の勝負はまだ五分五分だ。むしろ古泉が俺を押している状況にある。っつーか、もう三十分も経ってたのか? せいぜい十五分くらいだと……、
「今日はもう終わりにしましょう」
 古泉はもう一度繰り返した。にっこりとした微笑みに有無を言わせぬ威圧感がある。
「気になるなら行ってきてください。僕は止めませんよ。むしろ率先して促させていただきたいですね」
「………」
 俺は黙る。見渡すと、朝比奈さんも長門も黙って俺を見ていた。
 ……やれやれ。
「鍵、頼んだからな」
「お任せください」
 鞄を持ち、席を立つ。俺が部室を出るまで、誰も何も言わなかった。その無言の視線を受けながら、俺は俺の集中力を奪い続けている元凶を摘み取るために歩き出した。

 

 ハルヒが何処にいるか? 俺には何故か根拠のない確信があった。俺には長門のような宇宙人的能力はないが、さすがに一年近くずっと一緒にいりゃ奴の行動パターンくらい分かるのさ。
 迷いなく向かったのは俺達の教室だった。後ろの扉を開いてすぐ視界に入ってきた黄色いカチューシャは、今日俺が神経をすり減らして探し求めていた物に相違ない。
「反抗期はお終いか?」
「……! へ!? な、あ、……早!?」
 俺の声に飛び上がったハルヒは意味不明な日本語を呟き、しかし発せられた音の数倍は口をパクパクさせていた。俺なりに意訳させていただくと、恐らく「へ!? 何で!? あんた……早っ」とかかな。多少違ったとしてもまぁその辺りを音にしたかったんだろうよ。っていうか早いって何だ。俺が此処に来ることは既に見透かされてたわけか?
「古泉が今日は終わりにするって言い出してさ。お前こそ部活サボって何してんだよ」
「……別に。あたしだってこういうときくらいあるわよ。ちょっとネガティブだっただけ。あんたには関係ないわ」
「嘘だろ」
 俺は言い切った。ハルヒが口を噤んで俯く。
「言えよ。何かあったんだろ? ただネガティブなだけなら家に帰ればよかったじゃねぇか」
「……電車に乗りたくなかっただけよ。それにここにいればあんたも……」
 何か言いかけた唇が止まり、「何でもない」と続けられる。だから何でもなくないだろ。だから、お前はここにいるんじゃないのか?
 ハルヒは俯いたまま両手を弄ぶ。放課後の教室に、夕陽がぼんやりと差し込んでいた。
「……電車に、乗りたくないの。それだけ」
「電車?」
 そういえばハルヒは電車通学だ。だが今まで長いこと通ってきて、こいつがそんなことを言ったことは一度もなかったように思う。
「………痴漢」
「は?」
「痴漢にあってさ。しかも三日間連続で。最初のほうはあたしも勿論撃退しようと頑張ったし、そいつも謙虚だったわよ。でも、今日、いきなり……」
 そこまで言って、ハルヒは唇を閉ざした。不思議に思って顔を覗き込むと、大きな瞳が涙で一杯になっていた。
「ハ、ハルヒ…?」
「あ、あたし、犯されちゃうかと思ったぁ……っ!」
 ボロボロボロボロと大粒の涙を流しながらハルヒは微妙に危いことを言い出す。しかし俺はそんなことに気を配る余裕などなく、ただハルヒの泣き顔を眺めることしか出来なかった。オロオロと手をあわあわさせている俺は完全に駄目人間だ。
「こ、こわかった…っ! さ、さけぼうと思ったけど…っ…こえ、出ないしっ! 混んでて誰も気付いてくれ、くれないし……っ! もうあたし、男がこ、こわくて……っ!」
 どうしたらいいのか分からず宙に浮かせたままだった両手がピクリと止まる。成程、朝俺が触った時過度に反応したのはそのせいか。閉鎖空間が出ていなかったのもこの為だな。今までの経験上、ハルヒは怒ったり憂鬱だったりすると途端に閉鎖空間を作り出すが、逆に落ち込んでいたりする場合はそれをしないということが解っている。
 いつもは強がってるが、ハルヒも一人の女の子なんだ。そのプロフィールこそ超が付くほど奇抜だが、種族的にはごく普通女の子に過ぎない。入学当初は男などジャガイモ程度にしか思っておらず平気で朝比奈さんの胸を掴ませたりしたのに、ここまでこいつが変わったのは一体誰のおかげかね。しかしそれが誰でも、この変化はきっと成長と言うんだろう。
 俺は泣きじゃくるハルヒを抱き寄せた。急に止まった嗚咽に微笑しながら、俺は言う。
「……怖いか?」
 返答はない。だが、柔らかい頭が俺の肩に重さを伝える。泣きじゃくりがすすり泣きに変わるのにそう時間はいらなかった。
「乗ってやるよ」
「…へ?」
「明日、一緒に電車乗ってやるよ。いくら俺が頼りなくても、一人よりはマシだろ」
 実のところチャリ通の俺にとってはかなりの遠回りなんだがな。それでも、今日みたいな喪失感を味わうよりはずっといい。ハルヒはいつもハルヒでいてくれなきゃ、俺は困る。
 ハルヒは少し黙って、しかしすぐに俺から離れて笑った。「団員その一なんだからそれくらい当たり前でしょ」と偉そうに言って、笑った。
 SOS団は、ハルヒの作った団だ。いなくてはならない存在という意味で長門が銀河そのものだとすると、ハルヒが太陽、団員その一の俺が月、古泉と朝比奈さんは近い順に水星と金星辺りがいいと思う。その全てが、ハルヒを中心に回っている。ハルヒがいなくちゃ、SOS団はSOS団じゃなくなっちまうんだ。ならば、俺はハルヒの手を取ろう。俺にとって一番居心地のいいこの居場所をなくさないためにも、俺はずっと太陽の周りを回り続けよう。そう思った。


 翌日、ハルヒは元気に部活に出席した。安堵したようにいそいそとお茶を淹れる朝比奈さんに、にんまりした笑顔の古泉、そして何故か含みある視線で俺を見る長門の三者三様の対応を見て、ハルヒは満足げに笑っていた。
 ちなみにわざわざ俺が遠回りをしてまで同乗した電車でハルヒが痴漢男に強烈グーパンチをくらわし、事件は本人の手によってあっさりと幕を閉じたことも申し添えておく。痴漢男は悪魔でも見るような目をしながら連行されてゆき、被害者だったはずのハルヒはそれこそ狩りに成功した獣のように得意げに笑っていた。
 そんなハルヒの輝かんばかりの笑顔を見ながら、俺は思った。
 ―――やっぱりこいつに涙は似合わない、ってさ。