そらいろrainbow


 ドシャバシャと雨が降っていた。降り続ける雨は地を濡らすまでに収まらず既に道をプチ洪水にまで至らしめている。朝ハイキングコースを登ってきたときは何ともなかったのに、どうして天気予報は外れて欲しくないときに外れるのかね。それに加え外れてほしい健脚大会の時なんかにはバッチリ晴天になっちまうんだから、余程お天道様は俺が嫌いらしい。俺は何か彼カッコ彼女カッコ閉じの琴線に触れることをしたか?
「まいったなぁ……」
 こんなことなら日誌なんて忘れたフリして明日岡部に謝りゃよかったぜ。生真面目に出し忘れた日誌なんて出しに行かなきゃ俺はSOS団の誰かの傘に入れて貰えたのに、どうしてこんな時ばっかりいい生徒ぶってみちまうんだろうね、俺は。
 きっとハルヒ以下四人はもう駅に到着している頃合だろう。勿論今から連絡して傘を持ってきてもらうわけにはいかんし、この学校の近くに都合よくコンビニがあったりなんかしない。いつかのように職員用の傘を借りるという案も考え付いたが、生憎とさっき俺の日誌を受け取った岡部が職員室の鍵を閉めていた。窓を割らなきゃ中には入れないだろうし、俺にそこまでする勇気など勿論ない。
 くそ、雨なんて大嫌いだ。今日から俺のプロフィールの「嫌いな物」の項目に雨を加えておいてくれ。ジメジメしてるし濡れるし寒いし、いいことなんてこれっぽっちもない。
 降り注ぐ雨は、シトシトなんてもんじゃなくバシャバシャと表現するのが相応しいように思われた。この中を傘無しで走って帰るのはどう考えても率先して風邪を引きたい奴以外誰もしたくはないだろうし、そうでなくても俺は雨の恩恵を直に受けながらハイキングコースを下るなんぞ全力で御免被りたい。しかし、それをしねば俺は今日学校に泊まる羽目になる。
「走って帰るか……」
 苦渋の選択を迫られた後俺が選んだのはハイキングコースインザレインの道だった。まぁこれでも身体は丈夫なほうだと自負してるから、もし風邪を引いたとしても軽度のもので済むだろうしな。その辺りは信用してるぜ、マイボディー。
 よし、行くか。
 ブレザーを脱ぎ、頭の上にスタンバイする。ブレザー如きでこの雨を防げるはずがないのは分かっているが、気持ち的にないよりはマシなのさ。その辺に頭大の葉っぱがあればそれでもいいが、生憎とここは普通の県立高校だ。オカリナ吹いたり森の中に昔から住んでたりネコ型バスを呼び寄せたりする生き物が住んでそうな森なんてない。
 靴をトントン履き直し、鞄を身体に近付けて持つ。よし、駅まで十分で駆け抜けてやる。実はそこからも自転車なのだが、駅に着いちまえばどうにでもなるさ。とりあえずこの坂道を如何に素早く無駄なく駆け降りるかが明暗の分かれ道になる。
「待って」
 何言ってんだ。今俺はハイキングコースを一気に駆け降りるための心の準備をしてるんだ。頼むから集中させてくれ。
「待って」
「………え?」
 長門?
 いや待て。長門は俺より一足早くハルヒ達と一緒に帰ったはずだ。幻覚か? いや待てそれも待て。何故俺が長門の幻を見にゃならんのだ。
「……長門?」
 今度は声に出して言う。トテトテとこっちに歩いてくる姿や透き通った目は、間違い無く我が心の拠り所である対有機生命体用ヒューマナイドインターフェースだった。うむ、俺の頭がイカれてない限りこれは本物の長門だ。
「何でお前がここにいるんだ? ハルヒ達と一緒に帰らなかったのか?」
「待っていた」
「待っていたって……俺を?」
「あなたを」
「どうしてだよ」
「傘」
 相変わらずの足りない物言いである。しかし、察するのは容易かった。
「……つまり、俺が傘を持っていないだろうことを見越して、お前はわざわざ俺を待っていてくれたわけか?」
「そう」
 いやはや、我が女神の誕生である。中河じゃないが、この時ばかりは長門の姿が光を纏って見えた。さすがだぜ、長門。
「でも、一つしかない」
 と言って長門が差し出したのはシンプルな空色の折り畳み傘だった。そりゃそうだろうよ。天気予報で晴れと言っているのにも関わらず普通の傘をしかも二つも持ってくる奴がいるとは到底思えない。いるとしたらそいつは余程疑い深い奴とみえる。お節介もプラスだ。
「十分さ。本当にありがとな」
 このままだと俺は風邪直行コースだったかも知れないからな。正直、かなり有り難いぜ。
 長門に持たせると恐らく俺の頭に傘が当たる為俺が傘を持ち、二人で学校を出る。強く傘を打つ雨の音が鼓膜を刺激した。これを直接頭頂部に受けたらそこそこ髪の毛の未来に影響してたかもな。危なかった。
「もっとそっちに寄せていい」
 長門が控えめに言う。傘からはみ出ている俺の肩を気遣った言葉だろう。気付かれないようにしてたつもりなんだが、こいつには何もかもお見通しらしい。
「いや、お前の傘だしさ。頭が濡れないだけで十分だ」
「だめ」
「いいって」
「わたしが嫌」
 嫌と言われてもなぁ。長門の折り畳み傘は女子用とあって小さいし、俺の方に寄せたら長門が濡れちまう。傘の持ち主を差し置いて雨を防ぐほど俺の肩は貴重じゃないんだよ、残念ながら。
 しかし長門は断固として譲らない。この目で見られたら俺が否と言えなくなると知った上でやってるのかと思うくらいの視線を贈呈され、俺は選択権を奪われた。
 ……やれやれ。
「じゃあ、こうしようぜ」
 長門の細っこい身体に腕を回し、ぐいっとこっちに引っ張った。よろけた身体が俺に当たって、そのまま傘を真ん中に持つ。これで、俺も長門も濡れない。
「これでいいだろ?」
 正直言ってかなり恥ずかしいんだがな。ハルヒにでも見られたら俺は即効御陀仏だろう。このエロキョン有希に何してんのよ歯食いしばりなさい馬鹿! と喚くハルヒが容易に想像できる。あぁ怖い。
 それでも離さないのが俺であって、離れないのが長門だ。当然ながらハルヒはここにいないし、雨のためか人通りも少ない。だったら、この儚くも柔らかい温もりを離す必要はないだろ?
 長門はこっちを向かない。長門より頭一つ分背の高い俺は、俯いた長門の表情が読み取れない。もしや怒っているのかと思い覗き込もうとすると、ひょいと顔を逸らされた。何だってんだ。嫌なら離すが……遠慮しなくていいぞ? 俺的にはかなりショックだが。
「そうじゃない」
 じゃあ何だってんだよ。
「……何でもない」
 何でもなくないだろ。正直、意味もなく顔を逸らされると結構ショックなんだが。
「………」
 黙った長門の顔を隙アリとばかりに覗き込む。すると、あろうことか表情のない宇宙人製ヒューマナイドインターフェースの顔には僅かながらにも朱が走っていた。ほんのりにも到達するか微妙な度合いだが、俺には確かに赤みが走って見える。これが自惚れだったら誰か俺を殴ってくれ。
「………」
 今度は俺が黙る番だ。今まで一年近く一緒に過ごしてきて、初めて見る表情だった。そしてきっと、長門自身初めてする表情だった。
「……あー、なんつーか……うん」
 何と言っていいか分からない。引き寄せて腰に回したままだった手を慌てて引き、俺は空を見上げた。どうやら一過性の雨だったようで、空はだんだんと明るくなり始めている。この灰色の空が長門の空色の傘と同じ色になるまで、そう時間はかからないだろう。もしかしたら虹が見れるかもしれない。いや、なんて現実逃避してる場合じゃないんだよな。しかし何を言っていいのか分からないままの俺は、空を見上げながら言う。何でか知らんが、ものすごく満ち足りた気分だった。
「……雨も、たまにはいいよな」
 ジメジメしてるし濡れるし寒いし、雨は嫌いだった。健脚大会の時には降ってくれないかと切望することもあるが都合よく降ってくれたことは一度もなく、そのせいで俺はさらに雨に対する印象を低下させた。
 だがこうしてると、たまにはいいよななんて思う。珍しいもんは見れたし、どうやら晴れそうだし、長門は柔らかいし……なんて言ったらハルヒに殴られるか。いや、でも。
「虹、出るかもな」
 今日の雨は、思わぬ儲け物をくれた。これはきっとそこらのダイヤモンドやサファイヤなんかとは比べることすら勿体無いくらいの価値があるぜ。一生暮らせるような大金か長門のホホエミか選べと言われても俺はきっと迷いなくこっちを選ぶだろう。これは、その表情への第一歩だと思う。あの時俺がエンターキーを押したことで消し去った世界のこいつの微笑みをこっちで見れるようになる日は近いかもしれない。そう思うと、途端に心が弾んできた。灰色だった俺の心が、空よりも一足早く空色になった。
「一緒に見ようぜ。もう少しで止みそうだ」
 駅前までもう少しだ。長門のマンションに辿り着くまでにはきっと雨は止むだろう。そんなことを考えながら、さりげなく離した腕を長門の背に戻してみた。反応はなかった。
 音もなく、太陽が雲の隙間から顔を覗かせる。突然入ってきた日差しは思いの外暖かい。
 その瞬間、未だパラパラと降り続いている雨に太陽の光が当たった。それは、そうたくさん見れるわけがないであろうほどの見事な虹になって俺達の目の前を彩った。空色を彩る、色鮮やかなレインボー。
「……きれい」
 長門がポツリと呟く。それはため息のような、吐息のような、小さいながらにも感動の篭った声だった。
 もういいかと思い、空色の傘を折り畳む。まだ少し雨が降ってるが、こんくらいなら全く問題ない。
「…いいの?」
 少し躊躇するような声で聞いてくる長門の顔にもう朱はない。しかし、俺は確かに見た。きっともう一生忘れないであろう宝物をこいつからもらった。
「いいんだよ」
 空が空色になったんだから、もう傘は必要ない。



 ジメジメしてるし濡れるし寒いし、雨は嫌いだった。数十分前までは、確かに大嫌いだった。
 しかし、雨もいいなと思った。こいつが、それを教えてくれた。
 俺はまた一つ、長門からとっておきの贈り物を受け取った。