褐色の舞姫


 人は暇になると、概して普段はやらないことをやり始めるものである。普段は料理というものに欠片も触れていない男が休日になると急に何か一品作りたくなったり、普段なら絶対しないはずの読書なんかを始めたりするのだ。あるだろ? そういうこと。
 その時の俺は例の如く暇であって、よって普段はあまりやらないことをやってみた訳なのだ。端的に言うと部室のパイプ椅子に座って本を読んでいる長門を見るというただそれだけの行為なのだが、宇宙人に作られた対有機生命体コンタクト用ヒューマナイドインターフェースをぶんどった元文芸部室でじっくり眺める、という字面にしてみると意外とシュールな暇潰しに俺は身を投じていた。別に普段長門を見ていない訳じゃないんだが、ハルヒの雑用係としてせかせかと動き回っているとなかなかじっくり長門を眺める機会などないもので、やはりこうまじまじとこいつの姿を眺めるのは「普段やらないこと」に値する。目を離せば転んでしまいそうな朝比奈さんや目を離せば爆弾を嬉々として爆破させかねないハルヒとは違い、こいつは安心して目を離していられるからな。
 こうして見ると、こいつもかなり綺麗な顔をしてるよな。大きな目は長めの睫に縁取られ、その瞳はずっと見つめてると吸い込まれちまうんじゃないかってくらいにどこまでも透き通っている。肌は雪みたいに白いし、本当にSOS団三人娘は美人揃いだよな。朝比奈さんやハルヒはパっと見て可愛いと思うタイプだが、長門はある時ふと「あ、可愛い」と気付くタイプの美人だ。まあ、三人共美人であることに変わりはないのだが。
 ハルヒは掃除当番、古泉は先生の手伝いに駆り出され、朝比奈さんは今日俺達より一時間分多く授業があるのでまだいない。というわけで、部室には俺と長門しかいない訳だ。長門は本から目を上げないし、俺が暇を持て余して長門を凝視し始めても何ら不自然じゃないだろ?
 窓の外では木の葉がサラサラと耳障りの良い音を立てていた。北風になぶられても尚散りきっていない褐色の葉達がヒラヒラとはためいている。冬は、まだ始まったばかりなのである。……なんて天気予報のお姉さんの足元にも及ばないような回想をするより、長門を見てたほうが何倍も有意義なんだよな。よってどうしても視線は長門に向かう訳であり、当の長門は何も言わないから俺は嬉々として宇宙人観察を続けるのであった。
 今日長門が読んでいるのは難しそうな経済評論らしい。カバーに「日本とアメリカの経済比較」と堅苦しいゴシック体で書かれている。宇宙人が日本とアメリカの経済に興味があるのかは疑問だが、やはり長門にはこういった小難しいタイトルが似つかわしい気もするな。長門が今話題の甘酸っぱい恋愛小説を読んでいたときはそこそこ意表を突かれたし……いや、何も悪いって訳じゃないんだが、甘酸っぱくてそこそこ過激なシーンがあるその小説をクラスの女子が読むことに何ら興味がない俺でも、長門が読んでいると些か反応しちまうんだ。……別に変な意味じゃないぞ。長門だって生み出されて三年しか経っていないにしても、まあ一応はお年頃な外見だしな。
「なに」
「ん?」
 長門が本を眺めたままそう言った。それがじっと自分を見つめ続けていた俺の行為に対しての言葉らしいと気付くのに時間がかかったのは、その質問が疑問系になっていなかったからだ。
「いや、何でもないぞ。気にするな」
 長門がやっと本から目を上げた。俺に何か物言いたげな視線を寄越し、そしてまた本に視線を戻して、
「……気になる」
 ポツリと言葉を落とすように、小さくそう言った。
 確かに思い返してみると、さっきからページをあまりめくっていない。高速で活字を読むエキスパートである長門にしては有り得ないほどゆっくりな読書である。普段は三秒に一回くらいのペースでページをめくっているのだから、これはかなりの亀速度だ。あくまでも長門にしては、だが。
 気になる、か。それを聞いて思い出したのは、ここではない部室で見た、この世界にはいない女の子だ。そいつも、こうしてずっと見つめると読書の速度を遅くして、あまつさえ頬を赤く染めていた。
 ――可愛いと、そう思ったのを覚えている。しかしそいつではなく、こっちの世界のそいつ……長門を選んだのは、この俺だ。
 今になって急に懐かしくなってきたのは、ちょうど去年の今頃がその時期だったからだろうか。俺を知らない朝比奈さん、長い髪を背に流し、黒いブレザーを着ていたハルヒに、そんなハルヒを好きだと語った古泉。そして、誰もいない文芸部室で、一人本を読んでいた長門。
「……長門」
「なに」
「お前が去年の十二月十八日に改変した世界の……その……宇宙人じゃないお前は、今はもういないのか?」
「いない」
 長門はきっぱりと言った。静かな声が、空気を優しく裂いた。
「あの世界はわたしが改変させたもの。そしてわたしの手で改変し直した。もうわたしの知りうる所では存在しない」
 長門の知りうる所では…って、どういうことだ? 長門の知らない所で、あのパラレルワールドは存在してるかもしれないのか?
「……可能性はほぼ皆無。だが、わたしのいないあの世界にわたしのような力を持った存在がいるのだとしたら、わたしの改変プログラムをわたしに気付かれないように変換し、世界そのものを改変させるのではなく、こことは違う世界として存続させることも不可能ではなかった。従ってもしあの世界がどこかで存在していてもわたしはそれを知り得ない」
 俺を気遣ってわざと分かりやすい説明をしてくれたのか、はたまたいつものとんちきな分かりにくい説明に飽きたのか、妙に分かりやすい説明だった。つまりあの情報統合思念体のいないパラレルワールドに長門のような非人間的な力を持った奴がいるのだとしたら、それが万が一だとしてもあの世界はまだどこかにある可能性もなくはないということか。
 エンターキーを押すのに戸惑いがなかったか、と問われると、その答えはNOになる。羽根のような小さな力で俺の袖を引いた長門を……そして小さく微笑んだ長門を、俺は捨てた。あの時は必死だった。やっと見つけた鍵に舞い上がり、白紙の入部届けを別れの挨拶にして俺はエンターキーに指を伸ばしたんだ。
 反対に、後悔しているか、という問いにも俺はNOと答える。やっぱり俺にはこの世界が合ってると、ハルヒ特製鍋を食べながら再自覚したのはまだ昨日のことのように思い出せる。だが、名残惜しかったのも本当だ。あの長門は、こっちの長門と違って一人だった。ハルヒも古泉も朝比奈さんも俺もいない文芸部室で本を読むことしか、あいつに選択肢は残されてなかったんだからな。
「……会いたい?」
 誰に、とは言わなかった。伏せたその視線からは、さすがの俺でもメッセージを受け取れない。
「……会えるのか?」
「改変すればいい」
「それは、また同じことを繰り返すってことか?」
「そうじゃない。以前わたしがしたのは地球規模での改変。範囲がわたし個人のみである改変ならば、その他の人類に影響を及ぼす危険性は百パーセントない」
 無機質な話し方で淡々とそう述べた長門は、細い指先で本のページをめくった。続きを読むためにめくったと言うよりは、めくらないと不自然だからとりあえずめくっておこうと言わんばかりのぎこちない仕草だった。
 もう一度会えるのならば会いたいさ。だが、あっちの世界でも考えたことがある。もし俺がいまイエスと答えたとして、そして長門が改変を行ったとして、そして長門があの時の『長門』になったとしよう。その時、今ここにいる長門はどうなるんだ?
 俺は目の前の宇宙人を見つめた。読んでいるのかはわからないが、とりあえずその宇宙人の視線は文字列に捧げられている。ぺラリ、もう一度ページがめくられた。俺にはそれが、さっきよりさらにぎこちなく感じられた。
「……お前は……どうなるんだ?」
 どう聞いたらいいのか分からなくて、俺はそんな意味不明な問いかけを長門に投げる。ボキャブラリーは一体どこに行ったら売ってもらえるんだろう。いつかいい店を見つけた時の為に貯金をしておくべきかね。
「………」
 本から目を離して俺を見た瞳は、ただ純粋に「どうして?」と言っていた。ハワイの海よりもずっと透き通って無垢な視線は、どうして自分のことを気にするのか分からないとばかりの純粋な問いかけを俺にぶつけてくる。
「『わたし』はいなくならない。今ここであなたといるわたしが、改変された性格に乗っ取られるだけ。情報操作で涼宮ハルヒのわたしに対する認識を変えてから改変を行えば世界に対する影響も全くない」
「お前はいなくなるんだな?」
 俺は強く聞き返した。
「情報統合思念体に作られた対有機生命体コンタクト用ヒューマナイドインターフェースのお前は……いつも部室の隅っこで本を読んでいざというときに必ず俺を助けてくれるお前は、いなくなるんだな?」
 長門が小さく頷く。その微細な動きを見て、俺は目を閉じた。それだけで色鮮やかすぎて目に痛いくらいの想い出が脳裏に蘇ってくる。
 いつだって長門は俺を助けてくれた。朝倉に襲われたときも自らの身を以って俺を守ってくれたし、五月にハルヒの閉鎖空間に放り込まれたときもヒントをくれた。繰り返すエンドレスサマーでも混乱する俺や朝比奈さんに対して冷静でいてくれたし、カマドウマの時も部長氏を一緒に救ってくれた。そしてハルヒが俺の後ろから消失した十二月の事件の時もメッセージを残してくれた。三年前に遡ってみれば、七夕には一日に二回もこいつの世話になってる。原稿用紙三枚なんかじゃ埋め尽くせないくらい、こいつはいつでも俺達と一緒に戦ってくれた。俺の中で、こいつはなくてはならない存在なんだ。
 確かにあの時の長門に会いたいとは思う。儚げにブレザーを引っ張られたときのあの感覚を、俺はまだ鮮明に覚えてる。だが、俺にとっての長門は今ここにいる長門だけだと、そう思う。
「長門」
「なに」
 本日三回目の「なに」を聞いた。それは、相も変わらず無機質で淡々とした長門ボイスだった。
 細々としていて少し尻つぼみの、あの羽根のような話し方ではない。長門は、やっぱこうでなくちゃならないと思う。
「俺はお前がいい」
 ページをめくるためにページとページの間にスタンバっていた指が本から離れる。もう一度俺を見た無垢な漆黒に、俺は強く言ってやった。
「お前じゃないと困る」
 ヒューヒューと北風が窓を撫でる。外を見ると、さっきまでは穏やかに風になぶられていた木の葉がプツンと枝から離れ、少し自らの自由をもてあそぶかのようにクルリと舞って、くゆって消えた。
「……そう」
 薄い唇が小さく動く。そして、小さな手がまた本に添えられた。読書モードに戻るらしい。今度はきちんと三秒に一回ほどのペースで黙々と読書を始めた長門の姿に妙な安心感を感じながら、俺はその横顔を見つめ続けた。ずっとずっと、見つめ続けた。
「うがーっ! もう、とんだ掃除当番だったわ!」
 その時、バタンとドアが開いて我が団長様が入ってきた。何故だか怒っているらしいハルヒは大股四歩で団長席まで辿り付き、
「もうっ! 何なのよあのタヌキ! どうしてあたしが生物室の掃除なんかしなきゃいけないわけ? ビーカーなんか自分で拭きなさいよ!」
 それが掃除当番ってもんだろ。そんくらいやってやれ。
「やったわよ! でもね、あいつあたしの拭き方に文句つけてくんのよ。文句があるなら自分でやれって思ったわけ。だからあたしが担当した十個は雑巾で拭いてやったわ。流し台にかけてあったベッタベタのやつ」
 そりゃどんな嫌がらせだよ。生物部が泣くぞ。
「泣かしときゃいいのよ。ああもう、気晴らしにみくるちゃんで遊ぼうかと思ったらみくるちゃんいないし、このやり場のない怒りはどうしたらいいのよ!」
 その辺に丸めて捨てておいたら誰かがちり取りで取ってくれるかもな。ただしゴミ箱が中から腐りそうだ。ちゃんと焼却場に行って自分で燃やしてから捨てたほうが無難だな。分別はしろよ。
「馬鹿な事言ってないでキョン! お茶! とびっきり熱いの!」
「はいはい」
 俺が淹れた朝比奈さんのお茶の百分の一はマズイであろう緑茶をハルヒがガブガブと一気飲みするのを見ながら、俺は長門にお茶を差し出す。いつもは視線を上げず反応もせず読書を続けるのだが、今日は視線を上げた。何やらブツブツ呟きながらネットサーフィンを始めたハルヒは気付かない。
 数秒間、見つめ合っていたと思う。一秒だったかもしれないし、十秒は超えていたかもしれない。どこか別の空間に放り込まれたような朧げな感覚の後、
「……ありがとう」
 大きな目が、少しだけ柔らかく細まった。そして俺が我に返ってその言葉を反芻するよりも早く、長門は読書に戻っちまった。ぺラリ、ぺラリと乾いた音が鼓膜を撫でる。
 会いたいなんて、もうきっと思わない。いや、その想いはきっと俺の中に住み続けるだろう。だが、もうきっと表面には浮き出てこない。こいつがここにいる限り、俺はもう絶対そんなこと思わない。
 だから、と俺は思った。そう、だからこそ、

 ――ずっとここにいろよ、長門。

 大きな声で皆を先導するハルヒ、癒し系メイドな朝比奈さん、スマイリーな笑顔が何故か憎めない古泉、そして、縁の下の力持ちである長門。
 こんな生活がずっと続けばいいと思う。いつもは五人でまったり遊んで、たまに非日常なことが起きる。そんな生活を俺はずっと望んでいた。そして、それは今ここにある。それを促してくれたのは、長門だ。
 ここにいろよ、と、もう一度視線で訴えてみた。それが本に注がれたままの視線とぶつかることはなかったが、俺の淹れた緑茶を一口飲んだ長門の瞳は確かに柔らかく細まっていた。