サイレントメッセージ ―――第6話――― 昨日我が家の早起きNo.1選手である妹に明日は早く行かねばならん旨を聞きつけられた為か、俺は寝坊することもなくいつもの一時間ほど前に目覚めることに成功した。まぁその過程には強烈なボディブローや妹流押しつぶし攻撃などが巧妙に織り込まれていたのだが、今は潔く割愛させていただく。 さて、そんなこんなで俺は早朝のハイキングコース並の坂道を一人悠々と歩いている。いつもは無難な時間に登校しているため登校中の生徒で溢れあえっているこの道は今は人っ子一人いない。この眠気がなければ俺はもう少しこの新鮮な景色を楽しめるのだが、旅行疲れを癒すのに一晩の睡眠では足りなかったらしく、さらに昨日の朝比奈さんの電話のおかげでなんだか妙に頭が冴えた状態での睡眠を貪ってしまったために、俺は眠さを訴える頭を押さえつけつつ両足を規則的に動かすのが精一杯という何とも高校生らしくない登校風景を演出しているのだった。 校門をくぐり校舎に入る。三十分前に来いって話だったのだが、妹のおかげか四十五分前に到着しちまった。まぁ早いに越したこたねぇよな。 うちの学校は校舎に入ってすぐに下駄箱があり、そして俺は校舎に入った瞬間に身体を強張らせた。恐らく下駄箱の中で待っている物体。入っててもやれやれだが、入ってなかったら俺が四十五分も早く学校に来た意味がない。まぁつまり入ってなきゃ困るわけだが、これから何が起きるのだろうと想像すると寒気がするね。もしソレが入ってなかったらこのまま帰ってベッドにダイブしたいと思っちまう程度には俺は疲れてるんだ。 「……ふう」 俺のついた溜息が何を表したものだったのか自分でも分からない。落胆なのか、安堵なのか、はたまた気を紛らわす為の無意味な物だったのか。 幸いなのか不運なのかは分からないが、それはきっちり俺の上履きの上に鎮座していた。 ファンシーな柄の、可愛らしい封筒が。 ほぼ条件反射のようにそれをポケットにしまい、俺は男子トイレへと駆ける。何度も繰り返したせいで妙に馴染んじまった動きの末、その封を切った。もしこれがラブレターなら今俺の顔は多少なりとも緩んでいるはずなんだが、その内容を想像すると緩むもんも緩まないんだな、これが。 見慣れた字によって埋められた便箋にはこうあった。 『今すぐ教室へ行ってください。そこに長門さんがいます。二人で、急いで部室に来てください。詳しくはそこで話します。急いで』 今すぐ? しかも長門と? 俺が十五分早く学校に来ていることを見込んだ『今すぐ』なんだろうか。それとも三十分前だと予測して俺はもう少しここで落ち着いていられるのか? いや、悩んでる場合じゃないな。『急いで』という命令口調の単語を二回も使われてチンタラしていられるほど俺は冷静な人間じゃない。自慢じゃないが。 封筒を再びポケットにしまい、俺は走り出した。全く、いい運動になるぜ。一体俺は朝から何やってんだろうね。 男子トイレから俺の教室まではそう遠くない。廊下を走り、渡り廊下に差し掛かったらすぐだ。俺はそれを一気に駆け抜けようとして、 「待って」 何かに袖を引っ張られた。 「長門?」 「そっちに行かないで。朝比奈みくるがいる」 「朝比奈さんが?」 朝比奈さんっていうのは、どっちの朝比奈さんだ?朝比奈さん(大)のほうなら全く問題ないと思うのだが……。 「今わたし達と同じ時空に住んでいるほうの朝比奈みくる。あなたに伝えたメッセージの行方を確かめに来た模様。見つかってはいけない」 長門がそう言ってすぐ、渡り廊下の向かい側に俺のよく知る朝比奈さんが現れた。条件反射で廊下の窪みに身を隠す。 幸い今朝比奈さんがいる位置から俺は見えない。長門の言うとおり北高の制服を着て不安げに両手を組んで胸の辺りで押さえている朝比奈さん(小)は、キョロキョロと周りを見渡しながら明らかに誰かを探す素振りを見せている。 誰を? 考えるまでもない。 俺をだ。 昨日電話越しに聞いた朝比奈さんの声を反芻する。朝比奈さんは自分は行くなと言われたと言っていた。だがそれでも来た。きっと、自分の役割を見極めるために。 見つかってはいけないと長門は言った。そうだ。ここで朝比奈さんに見つかってしまったら、俺は朝比奈さん(大)のことやファンシーな封筒のことを誤魔化す術を持たないんだ。 やば、こっち来る。 俺が今いるのは廊下の途中にある窪みで、そこから出ようにも窪みから出たら向こうから歩いてくる朝比奈さんに見つかっちまう。どうする? ここはいっそのこと潔く出て適当に誤魔化すか? いや、いくら朝比奈さんでもこんな状況で俺のデマカセを信じるほど素直じゃないだろう。だがこのままだと―― 「朝比奈さん!」 は? 思わず出そうになった声を俺は必死で押さえつけた。俺の背中に貼りついてる長門は当然のように何も言わない。 「どうしたんですか? こんなとこで」 「……キョン、くん?」 朝比奈さんは呆然とした面持ちでそいつの名を呼んだ。そして俺達に背を向けてトテトテと歩き出す。 その頼りなさげな後姿を眺めながら、俺はポカンと口を開けた。 『俺』がいた。 渡り廊下の突き当たり……俺達から見て朝比奈さんのさらに向こうに。 「走って」 今まで黙っていた長門が音もなく立ち上がり、俺の袖を掴んだまま走り出す。『俺』と朝比奈さんがいるのとは逆の方向へ。 渡り廊下の突き当たりにいる『俺』は朝比奈さんに何か言い、朝比奈さんの注意を引いている。有り難いことに、少なくとも朝比奈さんは今遠ざかろうとしている俺達に気付いていない。 その次の瞬間、『俺』が俺を見た。 朝比奈さんの後頭部越しに俺と『俺』の視線がぶつかる。『俺』は俺を見て、少しだけ瞳を細めて、小さく頷いて、唇を短く動かした。 それが最後だった。 長門に引っ張られるようにして走っていた俺はきちんと前に向き直り走り出す。その後『俺』がどうしたのかは気配でしか感じられなかったが、響いてくる僅かな声から察するに、恐らく朝比奈さんへの弁解に戻ったのだろう。 これからどうなるか分からない。分からないが、 ――頼んだぜ、と。 唇だけの音のないメッセージだったが、『俺』は確かにそう言った。そう言って、朝比奈さんの注意を引いてくれた。これほど自分に感謝するのは過去にも未来にもこれが最後だろうよ。 頼まれてやろうじゃねぇか、未来の俺。 何が起こるか分からないし、それが間違いなく厄介事であることも俺は重々承知している。だが、未来の自分に頼まれたからにはしっかりやらざるを得ないだろう。俺だってそのくらいの使命感は持ってるんだ。 長門に袖を引っ張られながら廊下を走り抜け、俺と長門は無事部室に着いた。朝からとんだハプニングだったな。俺の心臓が発作を起こすことなく規則的に活動してるのは、毎日妹の強烈なタックルを受けてるからかね。 「入りますよ」 いつもの癖でノックしそうになり、全く意味がないことに思い当たった為、俺は小さくそう言いながらノブを回した。長門の小柄な身体が俺についてくる。 「キョンくん」 予想通り、そこにいたのは魅惑の美女、朝比奈さん(大)だった。いつぞやのスカートとブラウス姿で微笑んでいらっしゃる。 「お久しぶりですね、朝比奈さん」 朝比奈さんは「ふふ」と小さく笑い、 「久しぶり。ちゃんと『あたし』に見つからずに来れました?」 っつーことは、あれは規定事項だったんですか?朝比奈さん(小)が学校に来ることも、未来の俺がそれを引き留めることも。 「ええ、キョンくんには後でその役をやってもらわなきゃいけません。でもその前に、一緒に過去に行ってほしいの」 想像はできてましたが……行き先はもしかしなくとも二日前だったり? 「アタリです。でもあたしはあなた達を送り届けて、全て終わった後またここに連れてくることだけが仕事だから、あまり一緒にはいられないの。事情は長門さんに聞いてください」 俺は背後の長門を見て、 「長門が知ってるんですか?」 朝比奈さんに向けた質問に長門は頷き、朝比奈さんが答える。 「一応昨日キョンくんと同じように電話で呼び出させてもらったけど、長門さんには一昨日の段階で分かっていたはずです。だから、詳細はあっちに着いてから聞いてください」 「それはいいんですが……昨日俺に電話してくれた朝比奈さんは俺にしか伝えてないような言い方をしてましたよ?」 「キョンくんには過去のあたしが伝えなければならなかったの。長門さんにはあたしが伝えました。それが規定事項なの。じきに分かるわ」 朝比奈さんの甘やかな笑みが一瞬だけ苦笑に移り変わった。そこに浮き出た申し訳なさそうな色が禁則事項を孕んでいることを予想し、俺も苦笑しながら頷く。 朝比奈さんはもう一度笑い、 「じゃあ行きます。キョンくん、長門さん。もう少し近寄ってください」 朝比奈さんが俺と長門の肩にささやかに触れる。嬉しいようなむず痒いような、なんとも複雑な感じだ。 「目を閉じて」 朝比奈さんの甘やかな声を耳元に感じる。時間移動は何度やっても慣れるもんじゃないが、これなら何度でもあっていいと思っちまうね。 ――――きた。 グルグルとした浮遊感と吐き気が目を閉じた俺の体を刺激する。しかしそれも一瞬のことで、朝比奈さんの手が肩から離れる頃には俺の足は地面を感じていた。 目を開ける。見覚えのある景色が視界に広がり、 「着きました。二日前の午前十時半の、あなた達が泊まったコテージ付近です」 朝比奈さんがその詳細を告げた。 そして茂みを隔てた向こう側には、楽しげに坂道を登る過去の俺達の姿があった。 |