サイレントメッセージ
―――第7話―――



「じゃああたしはこれで」
 さっき言ってた俺達を送り届けて連れ戻すことだけが仕事だという言葉は本当だったようで、朝比奈さんは俺と長門に小さく会釈して手を振った。甘やかにウインクし、
「頼みました、キョンくん」
 そう言って茂みの向こうに消えていく。茂みが立てるささやかな音が消えるのと、長門の「この時空から消失した」と言う言葉は同時だった。何度も一緒に時間移動してんのに、一人で時間移動する所を見せてくれないのは何でなのかね。端から見たらどう見えるのか見てみたいんだが。
「不可視遮音フィールドと防御フィールド展開完了。接近する」
 そう言って長門は音もなく動き出す。不可視遮音フィールドっつーのは、異常動作を起こした長門を改変しに行った時に長門が使ったアレだよな。これでフィールドの前までなら近付いても俺達は透明人間にしか見えないってやつだ。茂みに隠れたんじゃ何もできないしな。
「朝比奈さん、あんまり離れてるとはぐれますよ」
「大丈夫ですよぉ」
 交わした記憶のある会話が『俺』とその後ろにいる朝比奈さんの間で展開されるのが耳に入る。愛らしくビデオカメラを持ってちょこちょこと後を付いていく朝比奈さんは、さっきまでいた大人朝比奈さんとはまた別の魅力があって、かなり可愛い。
 ―――そろそろだな。
 言われなくても分かった。事情を説明してくれるらしい長門はまだ何も説明してくれてはいなかったが、俺はこの世界で『俺達』を救わねばならんらしい。そして最初に来る障害は……
「!」
 朝比奈さんの右上の地盤が妙なオーラにより色付いていた。明らかに科学的な何かではない。それに気付いた長門が高速で何かを言うが、しかし地盤の崩れは止まらない。
「伏せて」
 長門に頭を茂みの中に押し込まれ、言葉通り身体を伏せた。すると、背後から槍状の塊が俺の僅か上を通り過ぎてフィールドにぶつかる。そして霧散する槍を見た先には、崩れかけている地盤があった。
 マズい。敵は一人じゃない。今長門と呪文大会を開催して地盤を崩そうとしてる奴と、俺を攻撃してきてる奴。少なくとも二人は確実だ。不可視遮断フィールドとやらを展開してんのに俺を狙ってきてるってことは、相手は長門を超える力を持ってんのか?
 何も知らずにカメラを構える朝比奈さんの上で崩れが始まった。くそ、気付けよ『俺』! このままじゃ朝比奈さんが……。
 何かないかと見渡して、足元に手頃な石があるのに気付いた。よし、これで。
「長門!防御フィールド解除してくれ!」
 伏せた体勢のまま長門に向かって叫ぶ。すると長門はひとつ頷いて早口呪文を唱えた。見た目には何も変わらなかったが、恐らくフィールドが解除されたのだろうと察して朝比奈さんの背後に思いっきり石を投げつける。
 コツンと音がしたのが聞こえたが、『俺』は気付いていない。くそ、何やってんだよあの馬鹿!
 もう一度石を拾い、力のままに投げつけた。石は地面に当たり、コツンと硬質な音を立てる。
 『俺』がやっと振り返った。
 しかし気付くのはあっちの長門のほうが早かったようで、ハルヒの隣で振り返っている長門を見て『俺』が一瞬怪訝そうな顔をする。長門は正真正銘固まっていた。息すらも出来ていなさそうな様子で目を見開いている。
 こっちの長門は土砂を食い止めるのに忙しいし、あっちの長門は恐らく敵に動作を抑制されているんだろう。明らかにそれはただ単に焦って動けない程度の物ではなかった。やはり古泉説は推測に過ぎなかったか。
「朝比奈さん!!」
 長門の視線の先を追って振り返り真っ青に青ざめた『俺』がキョトンとしている朝比奈さんに駆け寄り、腕を伸ばして小柄な身体を引っ張る。自分達の防御にも回り始めたこっちの長門の呪文は敵の呪文を抑えきれなかったらしく、大量の土砂が崩れ落ちた。記憶通り、『俺』と朝比奈さんの足元ギリギリに。
「……ふう」
 俺が安堵の溜息をついたのと『俺』が息を吐いたのは同時だった。こっちの長門もまた呪文をやめ、
「敵勢力の気配が消失した」
 と言いつつ俺に向き直る。その変わりない無表情を見ると心なしか落ち着く気がするぜ。
 何となくやるべきことが分かってきた。あの時聞いた硬質な音は、未来の自分による危機回避の知らせだったのだ。俺にはそれをする任務があった。そして長門には、土砂の崩れを食い止めて俺に猶予を与える任務が。
 これからその任務に携わらにゃならん過去の俺に礼を求めるつもりはないが、せめて今の俺は未来の自分に礼を言っておこう。ありがとな俺。朝比奈さんが怪我でもしたら俺は自我を失った悪魔の如く狂い始めるだろうよ。
 あっちではハルヒが朝比奈さんにペタペタ触り怪我がないか確認している。過去の自分が長門に話しかけているのを見て、俺もこっちの長門を振り返った。
「長門、そろそろ説明してほしいんだが」
「する」
 長門は即答し、
「長くなる。コテージに防御フィールドを展開する」
 つまりコテージに移動して話そうってことだよな。相変わらず発言が最低限度を超えない奴だぜ。
「…………」
 移動する道中、長門は何も言わずにただ身体を強ばらせていた。



 過去の俺達が荷物を置くのを待って入ったコテージは、懐かしいと思えるほど時間が経っていないのにも関わらず妙に俺に感慨を与えた。長門流防御フィールドもまた普通の人間の目には映らないものらしく、フィールドが展開されたコテージは俺の記憶と寸分違わぬ物だ。
 フィールドを展開し終えた長門は唐突に口を開き、
「あの時は気付かなかった」
 と言いつつ俺を見る。
「何にだよ」
「わたしがここにいたこと。わたしは今あなたも含めて持続的に体面に不可視遮音フィールドを展開している。だから今の『わたし』はわたしに気付いていない。気付いたのはもっと後」
 後とは……いつのことだ?
「後で分かる」
 そうかい。まあ、長門がそう言うんならこれ以上は聞かないさ。
 長門は唇を閉じて一瞬間を取り、また淡々と話し始めた。
「あなたとわたしがここに送られたのは、過去のわたし達を守るため。涼宮ハルヒの力は今これ以上とないほど安定している。それを良しとしない何者かが、涼宮ハルヒを刺激して能力の再活性化を図ろうとした」
「つまり……朝倉の時と同じような状況だったのか」
 長門は頷き、「しかし」と前置きして、
「今回はあなただけを対象とした攻撃ではなかった。今や涼宮ハルヒにとって古泉一樹や朝比奈みくるもなくてはならない存在。普段わたし達は数多くのインターフェイスに見守られている。しかし、旅行や合宿ではあなた達の保全はわたしに一任される。その隙を突かれた」
 だが長門は今回も守ってくれたじゃないか。あれじゃ足りなかったのか?
「そう。敵は一人ではない。前まではわたし直属のバックアップである朝倉涼子が遠距離からでもわたしに干渉できる状況にあった。しかし今は彼女がいない。わたしは単独で複数のイレギュラー要素を除去する必要があった。しかしそれは不可能。だからわたしは今ここにいる。過去のわたしの手助けをする為に」
「………なるほどなぁ」
 分かるようで分からない気もするが分からないようで分かる気もしたのでそう返しておいた。長門にしては分かり易く説明してくれていると思うのだが、あの旅行の中にそんな大層な攻防があったのだと思うと寒気がするね。よく無事でいられたもんだ。
「だが長門、古泉は何故今回何もアクションを起こさなかった? 朝比奈さんはともかく、古泉なら機関を通じて何かしてくれてもいいと思うんだが」
「携帯の電波が入っていなかった」
 唐突に思い出す。長門とハルヒと朝比奈さんが釣りをしている時帰って来た古泉は、携帯を手に首を振った。俺も確認したが、確かに液晶は圏外という文字を映し出してたな。
「それも敵の仕業だと思われる」
 成程な。オーナーの家の電話をいちいち借りなきゃならんのなら、古泉もそう頻繁に電話出来ないだろう。
「そう」
 長門は淡白に頷いた。古泉にまで手が回ってたっつーことは、あいつも少しは脅威に思われてんのかね。
 予想通りって言えば予想通りだ。ハルヒの前で団員の誰かが怪我でもしてみろ。あいつは暴れ出す筈だ。それを望む危ない輩がまた俺達の前に現れた。そう、いつぞやの朝倉のように。
 一通り話し終えたようで、長門はそれっきり口を閉ざした。セーラー服姿の長門はいつもと変わらぬ無表情に見える。長門の棒立ちを見ながら、俺はさっきのこいつの言葉を反芻していた。
「だがな、長門」
 どう切り出すか悩んだ結果否定語が口を突いた俺を長門はひょこんと首を傾げて見つめる。何? とでも言いたげなこの視線は俺の良く知るこいつの物だ。
 ハルヒ消失事件のときに感じたこいつの儚さがまた蘇る。自分の処分が検討されていると淡々と告げたこいつを俺は叱った。お前がいなくなったら俺は暴れると言って。
 しかしまだこいつは自分の存在価値を分かっていない。ハルヒも、きっと朝比奈さんや古泉も、もちろん俺も、長門がいなきゃ駄目なんだ。それをこいつは知らない。
「さっき、古泉や朝比奈さんもハルヒにとってなくてはならない存在だって言ったよな」
 なるべく平坦な声で言うように努める。そんな俺に長門は頷いた。
「お前はそう言うが、ハルヒにとっちゃお前だってなくてはならない存在なんだぞ。前にも言ったが、俺はお前がいなきゃ駄目だ。ハルヒもきっと同じだろうよ。頼むから自分を粗末にするな」
 いつの間にか俺は長門の肩を握っていた。ハッとして力を緩めるが、長門は何も言わない。
「約束してくれ。悩んだら俺に言うこと。絶対に一人で抱え込むな。俺は何もできない。できないが、長門に一人で悩ませるのは俺が許せない。そんなの仲間じゃないだろ。だから、な」
 言ってるうちに何を言っているのか分からなくなってきた。だがきっと長門なら分かってくれるだろうという根拠のない確信を込めて俺は言った。長門の黒曜石のような目は、僅かに揺らいでいるように見える。
「約束だぞ」
 揺らいだ瞳が一瞬綺麗に煌く。目の中の光を見つけられるほどにこいつの近くにいられるのはきっと俺だけだ。自惚れかもしれないが、今の時点では俺が一番こいつに近しいと俺は思ってる。なら、俺がなんとかしてやるしかないだろ。長門に消えられて一番困るのは、間違いなく俺なんだからな。
 長門が顔を伏せた。頷いたようなそうでないようなその仕草に表情を覗き込もうとすると、長門の淡い唇が薄く開かれる。
「………わかった」
 小声にしても小さすぎる、吐息交じりの声がガランとしたコテージに響いた。その答えに満足した俺は、ポンポンと長門のちまっこい頭を撫でてやる。黙ってされるがままになっている長門の瞳からは、さっきまでの強張った色など微塵も読み取れなかった。