サイレントメッセージ
―――第10話―――



 俺は昔から本番になると無性に緊張する性格で、例えばいくら練習しまくっても国語の時間にやったスピーチは上手く行かず、さらに加えると楽しみにしていた遠足などが近付くといつもは無駄に元気な癖に何故か決まって風邪を引く人間だった。何故かは知らないが、きっとそういう体質なんだろうと思い諦めるようにしている。つくづく恵まれない体質だと思うぜ。どうやら面倒事を引き込む体質ってのもそれにプラスされるらしいし、そして何故か俺の役割はどこに行っても雑用だ。感謝することもある気はしなくもないが、しかしやはり面倒臭いもんは面倒臭い。いつになっても本番はトチるし、肝心な所で運が付いてこないしな。今までの経験上土壇場になれば身体が動くらしいが、頭で考えると駄目になっちまうんだよ、これが。
 そして今も、長い時間待ち続けてやってきたこの時に俺は一種の緊張を感じている。朝比奈さん(大)に連れられ長門と共にやってきたのが今日の十時半頃だったかな。俺が本来いるはずの時空を発ったのは早朝だったが、到着したのはそんくらいだった気がする。ぶっちゃけいろいろありすぎてあんまり覚えてないのだが、果たしてあれは今日のことだったのかすら疑問だ。考えてみれば、今コテージで眠りについた『俺』はつい一昨日の自分の姿なんだよな。明日からあなたはドラえもんですと宣告されるより実感がない。あの時俺は、自分の未来存在がコテージの外でむなしく緊張の冷や汗を流していることなんて微塵も知らなかったぜ。
 目の前で音もなく立ち上がった長門が俺を見て、そして俺にも立ち上がれと視線で訴えてきた。立ち上がると、長時間同じ姿勢でいたせいで腰やら膝やらの骨がポキポキと威勢の良い音を立てる。これで俺の骨寿命が五年縮まったな。
「……『俺達』は、寝たのか?」
「眠らせた」
 俺が明かりの消えたコテージを見ながら言うと、長門は一言で返答した。確かにキャンプファイヤーを終えてコテージに戻り、ひと騒ぎしてベッドに入った後は沼に沈むような睡魔を感じた記憶がある。確かにあるのだが……長門が眠らせたのか? 今?
「そう」
 どうして。
「朝目覚めたわたしのデータに誰かに眠らされた痕跡があったから」
 それは……敵じゃないのか? 過去の俺達が眠ってる間に何かあったのは確かだろ。敵が起きてくると邪魔な俺達を眠らせても何も不思議じゃないと思うんだが。
 長門は少し間を置いて、
「そうかもしれない。でも、眠らせたのが誰でも結果は変わらない。わたしは眠らされて、何も知らずに朝を迎えた。それだけは事実。そうなればいいだけ」
 淡々とした声は妙に説得力があった。確かに、それをやったのが誰でも事実は変わらないもんな。
「そう」
 長門は静かに頷く。朝に見た自分の姿からどうにかなるのは分かっているのだが、やはり緊張する。長門もここからは何も知らないらしいし、ぶっちゃけもう生命の危機には遭遇したくない。例え生きて日常生活に戻れることが分かっていても、痛いもんは痛いんだ。朝倉のナイフとさっきから俺を狙い続けている槍状の物体が脳裏を掠め、俺は僅かに眉を顰める。
「へいき」
 長門は落ち着いた無表情のままだ。緊張という単語を知っているのかすら危うい。
「お前は怖くないのか? これから未知の状況に遭遇するんだぞ」
「無知は怖いことではない」
 長門は言い切る。
「知ることを放棄したのはわたし。わたしは、自分の思うように動く。それがわたしの未来。そしてわたしはあなたを必ずあなたを傷付けない道を取る。……わたしも、傷付かない道を」
 妙に饒舌な長門の髪が夜風になびいている。その藤色の髪が触ってみると見た目以上に柔らかいことを、俺は知っている。
「……信じて」
 どこかで聞いたことのある台詞だった。初めて行った長門の部屋で、例のウンチクを聞かされた時のことだ。あの時は信じるもんかと思ったが、今ではこいつの言うことは無条件で信じてしまえる程度には俺はこいつを信用してる。時の流れというものは偉大だよな。
 そうだよな長門。同期を不能にしたこいつの意図を俺は知ってる。未来に縛られずに動いたその先が自分の未来なのだと、こいつは語った。なら、俺は長門を信じて俺にできることをするしかないのさ。
 明かりの消えたコテージは暗い。森の中だけに辺りは暗く、入り口に付けられた常夜灯が唯一の明かりだった。しかも俺達がいるところからコテージまでは遠いから、その僅かな明かりすらあまり届いて来ない。こんな不気味な場所で長時間待っていられたのは、隣に長門がいたからかね。断言するが、確実に一人じゃ神経がもたなかった。夜の森は、夜の学校とはまた違った怖さがあるもんだ。幽霊なんか信じちゃいないが、今俺の背後に幽霊が現れても何一つ違和感ない雰囲気だぞ。
「行く」
 コテージに身体を向けた長門が淡白に言った。情けなくも背後の心許なさに不安を感じながら、俺も長門に倣う。コテージもまた、窓に何か影が映ってもよさそうなくらいの不穏な空気を漂わせていた。あぁ怖いさ、悪いか。
 しかしその瞬間、俺は背後に妙な重量感を感じた。近付いてきたというよりはぶわっとそこに湧いたような気配が俺の肌を撫で、気付いた時には身体が固まっている。何か出たと思う前に、驚いたように振り返る長門の見開いた瞳が視界に入った。固まった俺の耳元に『それ』は近付き、
「人間はさぁ、よく、やりたいと思ってやることは楽しいけど言われてやるのはつまんないって言うよね。これ、どう思う?」
 聞き覚えがありすぎる透き通ったソプラノが耳元でそんなことを囁いた。台詞にも聞き覚えがある気がする。振り返る必要はなかった。しかし、反射的に振り向いたそこには、
「……お前………」
 長門との対決で情報連結を解除された嘗ての委員長。しかし実は情報統合思念体に作られたヒューマナイドインターフェースの一人。
 ――消えたはずの朝倉が、俺の背後に立っていた。
「そんなにビクビクしないでよね。あたしだって取って喰おうとしてるわけじゃないのにそこまでビクビクされたらショックだもの。まさか、あたしのこと忘れちゃったとか?」
 朝倉は楽しそうにクスクスと笑う。ナイフの姿は見えないが、どこかに隠し持っていても全く不思議でない。
 しかし驚いているのは俺だけじゃなかった。いつの間にか俺の隣に来ていた長門は唇を僅かに震わせ、
「………どうして………」
 信じられないとばかりにそう呟く。こんなに動揺している長門を見るのは初めてだった。いや、例のパラレルワールドの長門はこんな感じだったかな。あっちのこいつは眼鏡をかけていたが、こんな感じで驚く『長門有希』の姿はまだそう色褪せてない。
 そんな長門を見た朝倉は愉快そうにクスリと笑い、
「驚いてる驚いてる。ふふ、そうよね。あたしはここにはいるはずない存在なんだもの。あたしの情報結合を再構成するには絶対に長門さんの許可が必要だし、もし万が一長門さんに無断で再構成されても長門さんならその瞬間に気付くことができる。そうでしょう?」
 朝倉は楽しそうに長門を見た。長門は返答しない。
「なんか長門さんより優位に立てるってすごくいい気分。このまま何もせずにいてもいいかもな。怒られちゃうかもしれないけど、どうせこんな身分だもん。関係ないか……と思ったけど、一応やるべきことはやってあげる。だってそれ、あたしの為だもの」
 懐かしい微笑みのままで不可解なことを言う朝倉。俺には何一つ分からない。つーか分かれっていうほうが無理だろう。ぶっちゃけ今の俺の理解速度ではこれっぽっちもついて行けない。
 いや待て待て落ち着け。頭の中を整理してみよう。いきなり背後に現れた朝倉。朝倉は、本当ならば存在しないはずだ。あの時目の前で砂のように朝倉を再構成するには長門の許可が必要らしいが、この長門の驚き方からすると長門は許可した覚えがないらしい。では何故朝倉はここにいる? 新しいインターフェースが朝倉のフリをしてるのか? いや、それにしては雰囲気や仕草まで朝倉そのものだ。ええい面倒臭いな、この野郎!
「……まず根本から聞こう。何故お前がここにいる?」
 溜息交じりに問い掛けた俺に朝倉はにっこりと笑い、
「そんなこと、あたしがあっさり言うと思う?」
 …いや、思わないけどさ。
「無駄だと分かっていても自分の欲望に突き進むのは人間の性質なのかな。それとも、あなたがそうなの?」
 何が言いたい。
「愚かね、ってこと」
 朝倉はもう一度俺に向けてにっこり笑う。周りが暗いせいか、妙に邪悪な笑顔に見えるぞ。
 その時だった。
 ――ボワァッ。
 何かに火が付くような音が僅かに聞こえ、そしてそれは正しかったらしい。俺達がいるところから大分離れた所にあるコテージの窓が赤く見えた。勿論窓が赤い色をしているわけではない。コテージの中の色がガラス越しに透けて見えているのだ。言うまでもなく、その赤は炎の赤だった。
 ヤバい。出遅れたらしい。
「長門!」
 早く行かないと、過去の俺達が燃えちまう。朝倉の出現が未来的に規定事項なのかどうかは知らんが、俺達にとってそうでなかったことは確かだ。大分時間を取られちまった。
 無表情の長門の手を取り朝倉に挨拶もなく背を向けるが、朝倉の微笑みは変わらなかった。今後もう会うことがないであろう委員長の存在意義について思考を巡らしていると、
「そのままで勝てると思う?」
 耳障りの良いソプラノボイスが俺達の足を食い止めた。無視することもできず振り返る。
「……どういうことだ?」
「気付かれてるよ。あなた達」
 そんなこと承知の上だ。だがやらなきゃ『俺達』が死ぬだろ。
「このままだと今ここにいる自分達が危ないって、分かってる? 長門さん、今は大丈夫みたいだけど、さっきまで一杯一杯だったんでしょう?」
「………」
 三点リーダーは長門の物だ。
「長門さんの情報操作はは敵に厳重に注意されてるわ。あなたは情報操作に関しては何もできない。でも、注意を置かれていない上に情報操作を可能とする人物がここにいる。今あたしはあなた達にしか存在が認識できないようになってるから、敵はあたしの存在にすら気付いてないし。これが何を意味するか、あなたの頭で分かるかしら?」
「……お前が、何とかしてくれるってのか?」
「あなた達がそう望むならね」
 そして朝倉は黙った。暗い闇に沈黙が訪れる。
「……あなたが決めていい」
 長門が言う。俺にそんな大切なことを決めさせていいのか? 朝倉はお前のバックアップだったんだろ? お前のほうが、こいつを知ってるんじゃないか?
「例えそうだとしても、わたしはあなたの意思を尊重する」
 そう言って俺を見る長門。藤色の髪がささやかに揺れていた。
 どうにかしないと、俺達は危ないらしい。確かにそうだ。だが、俺はもう二度も朝倉に殺されかけてる。上司からこいつを信用しろと命令されても俺は迷うことなくその命令を無視するだろう。一度身体に刻み付いた恐怖ってのはなかなか消えないもんなんだ。
 だが、朝倉を信用せずにこのままコテージに乗り込んでもそれはそれでマズいらしい。朝倉は何故ここにいる? その答えは、ここにあるんじゃないか?
 長門は俺に選択権を委ねた。なら、俺は俺の思うように行動すべきだ。
「……頼む、朝倉」
「本当にあたしに頼んでいいの? こんなの口からデマカセで、実はあなたを殺そうとしてるのかもよ?」
 自分で言っといてその返答はないと思うのだが、しかし俺は怯まなかった。
「お前を信じる」
 今度は朝倉が黙る番だった。意表をつかれたような表情を浮かべて、フウと溜息ひとつ。俺が思わず身を固める前に、朝倉は俺達に手を伸ばした。白い手のひらが俺に向いて、
「……仕方ないな」
 パァァと擬音語を付加してもいいのではないのかというほど眩い光が、俺達を包んだ。